Talk Lounge – JAMS.TV https://www.jams.tv オーストラリア生活情報ウェブサイト Mon, 04 Sep 2023 12:09:34 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.7.2 酒造りを追求して100年「ほまれ酒造」代表/唐橋裕幸さん https://www.jams.tv/gourmet/234076 Mon, 04 Sep 2023 02:45:53 +0000 https://www.jams.tv/?p=234076 福島県喜多方市。今年で創業105年を迎える「ほまれ酒造」は、大正当時からの伝統的な酒造りを継承しつつ、現代のグローバル化やデジタル化を追い風にする新しい取り組みを次々と打ち出し、伝統と挑戦の二つの軸で世界に誇れる酒を会津 […]

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福島県喜多方市。今年で創業105年を迎える「ほまれ酒造」は、大正当時からの伝統的な酒造りを継承しつつ、現代のグローバル化やデジタル化を追い風にする新しい取り組みを次々と打ち出し、伝統と挑戦の二つの軸で世界に誇れる酒を会津から送り出している。

ようやく100年。会津の老舗酒蔵に名を連ねた「ほまれ酒造」という家業を継ぎ、より良い酒造りを求めて既存の枠組みを超えた挑戦に挑み続ける現社長・唐橋裕幸氏に、自身のキャリアを振り返りながら酒造りのポリシーとビジョンについて伺った。

「酒づくりは人づくりから」社長就任後の革新的な取り組み

父の仕事を継いで酒造りを学ぶために

「僕は大学卒業してからすぐには家業を継がず、メルシャン*に入社して酒類業界について学びました。就職活動の際に『いずれ家業を継ぐのであれば、いきなり自分の会社に入ってしまうと世間が狭くなってしまう。自分の会社のことしかわからなくなってしまう』と思って。他の企業を見てみたいというのがあったんです。

そこで3年半ほど働いて酒造りにおける毎年の準備がわかってきたところで、前々から興味のあったアメリカ留学にも踏み切りました。サンフランシスコ大学でMBA の資格を取得して帰国したんですけど、当時は“社長室長”という役職で、福島県酒造組合会長や地元の商工会議所会頭も務めていた父の空いた穴を埋めながら、役員の立場で経営に関わっていましたね。

ただ、僕は酒造りのコンセプトを考えて社員に作ってもらう立場なので、やっぱり酒造りを学ばなければ始まりません。それで、醸造関係の蔵人のための酒類総合研究所の研修を2ヶ月間、福島県独自の制度の清酒アカデミーのカリキュラムを3年間、働きながら受けて、メルシャンでの就労経験に加えて酒造りを学びました」

企業イメージを変えていく試み

「昔のほまれ酒造は、普通酒**メイン、いわゆる安酒を打てる酒造というイメージが強くて。元々僕が生まれた1973年から日本酒の消費量はほぼ落ちっぱなしで、会社自体も平成3〜4年がピークでした。なので『そこを変えていかないと後がないな』ということで、僕の代から色々と改革に乗り出しました。

例えば、火入れについて見直してみる。お酒を大量に造ると、すぐに火入れへ移す暇がなくて半年くらい伸びてしまうものがある。そうすると、生老ね(なまひね)***が出て、お酒にひどい臭いが付いてしまうんです。だから、火入れを早めてお酒の品質を上げていく。お酒を造るのに精いっぱいで『そういうものだ』と思ってしていた火入れのような作業を、きちんと見直すことから始めました。また、パストライザー****も導入して、大型の冷蔵庫も設置しました。造ったお酒の管理と設備を充実させることも大事ですから。

歴史ある会社の体制を改善する場合、もちろん従業員を総入れ替えするわけにはいきませんし、今いる社員にしっかりと納得してもらって少しずつ変えていくしかありませんよね。高齢の方に急な変更も酷なので、小さい成功を少しずつ積み重ねていくことで信頼を得ていくことが重要なのかなと。

従業員は現在50数名いるのですが、年齢層が高いので新卒や若人の働き手の問題もあります。希望してもらえればどんどん入社してもらいたいのですが、特に日本の中小企業だとなかなか雇用できません。どんな職業にも通じる部分として、若人が働きたくなる環境に根本から変えていかなきゃいけませんね。『夢が持てなきゃダメなんだ』というのは、僕自身、本当に思うんです。ですから、夢を持って入社したのに現実は下働きだけ、とかそういう状況は酒造も変えていくべきでしょう。

それから、マニュアル化できるものは順次マニュアル化していく。今はもう親方や師匠に少しずつ教えられていく時代ではありませんから。社員教育に関してはまだ充実していないと思うので、マニュアル化によって従業員が不必要に嫌な思いをしないように、働き方改革を進めています。昔のほまれ酒造には社是がなくて、僕はMBA時代に『社是があるかないかで企業の成功確率が違う』ということも学んだので、マニュアル化に先んじて社是も作成しました。

こういう視点で見ると、クラフトビールの醸造には若人が増えているのも頷けます。要するに、日本酒がどうというよりも働き方が問題で、社員だろうと給与が良かろうと夢がない会社では働けないのかもしれないし、ましてや給与が悪くて夢がない会社というのは論外ですよね。ですから、そこは僕が社長として一番最初に取り組むべきポイント、最重要課題とも言えます。ほまれ酒造としての経営ビジョンも口酸っぱく周知するようになりました。

酒づくりは人づくりから。人がいなくなってしまうとね、丁寧に造っているものですから」

*酒類の製造販売を行うキリンホールディングス傘下の国内最大手ワインメーカー
**吟醸酒や純米酒、本醸造酒などの特定名称酒として分類されない日本酒。特定名称酒とは違い、精米歩合や原料、製法に決まりがない
***火入れをしていない酒を貯蔵(保存)した場合に発生する不快臭
****缶や壜に温水シャワーをかけて熱殺菌し、設定温度まで下げて排出させるトンネル型の低温殺菌装置

安らぎと喜び、そして感動を与えるものづくり

「ほまれ酒造の社是は、『安らぎと喜び、そして感動を与えるものづくり』です。

なぜ人はお酒を飲むのでしょうか? それは、お酒というものに安らぎを求めているのだろうと思います。家族や友達と語らいながらお酒を飲むことには、喜びを求めているのだろうと思います。最後に、そのお酒を通して感動を与えられたら最高の会社だよねということで、この社是を打ち立てました。お酒を一口飲んでホッと安らぎ、お酒を飲みながら仲間や家族と語らえる喜び、こんなおいしいお酒に出会えてよかったという感動、より多くの幸せなシーンを醸し続けていきたいと考えています。

お酒造りにおけるクオリティコントロールの部分もそうですが、もう一つはチャネルです。販売チャネルを利益率の高いものにしていく。例えば、直売所なら自社商品を小売り価格で販売できるし利益率も高いので、その直売所にどうやって購入客を呼び込むのかと考えた時に、我々の所有している施設をまず見学してもらうのはどうだろうかと。

そこで、観光施設として自社の日本庭園と酒造を一般に開放しました。『実際の酒造りの環境を見て、お酒を直に楽しんでいただきたい』という願いがあったんです。

日本庭園の『雲嶺庵』は、元々ほまれ酒造の創業者が個人的な趣味で建築していたものです。創業者の住居もそのままでしたから、ほまれ酒造のお酒を試飲・購入できる直売所として改装しました。『ほまれ酒造には大吟醸や純米大吟醸もある。その中から自分の好きなお酒を見つけていただきたい』という意味合いを込めて、純米大吟醸を含めた高級なお酒も全部、無料で試飲できるようにしています。

酒蔵も自由見学のコースと、ガイド付きのコースを用意して、一般の方が酒造りの様子を目にした上で自分の好きなお酒を見つけるきっかけにしていただければと考えています。外部からの見学があることで、社員が見られていることを意識してよりピリッと締まる部分もあると思います。

我々が一貫して目指しているお酒というのは、『さっぱりしていながらも後から蘇ってくる味わい』、その『余韻が残る味わい』。

今は日本の酒造りの幅もずいぶん広がりましたが、その中でも福島は県として独特な動きをしていて、福島の酒が全国で入賞する機会も増えているんです。その発展の理由の一つに、先述した清酒アカデミーという職業訓練校がありまして。これは福島県酒造組合と福島県が共同で資金を出している職業訓練校で、県内の各蔵から従業員を募って10名以上で1学年として3年間、お酒造りを学びます。そこで、横のコネクションもできるわけですね。今年28期生が入学しますが、それだけ長く培われた歴史や技術と、情報交換が活発に行われています。

それから、2022年の全国新酒鑑評会で福島県の日本酒は17銘柄が金賞を受賞して、金賞受賞数9回、連続日本一を達成しました。これには、県内の酒蔵が集まる高品質研究会、通称“キントリ会”の成果があると思います。自社の蔵だけを見ていると本当の背丈は分かりません。ですから、持ち寄り会を定期的に開催しているんですね。それを鑑評会や品評会の前に必ず開いて、意見・評価し合う。それと、出品後から審査日まで出品酒が保管されることを見越して、審査日に合わせた状態で同じお酒を各蔵で見合ったりして、『ちょっと(お酒が)ひねちゃったな』とか『これだれちゃったね。なんでだれちゃったんだろう』とか、研究し合う。

こうした集まりは前々からありましたが、2011年の東日本大震災によって福島が大きなダメージを受けたこともあり、その復興も兼ねて『みんなで盛り上げようよ』と必死になったところはあるかもしれません。どこに出しても風評被害で取り入れてもらえなかったり、海外への輸出が止まったりと大変でしたから、『品質で一番になれば福島のお酒を選ばざるを得ない』状況になるかもしれないと。

ほまれ酒造が2015年にIWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)*で世界一を受賞できたことは、福島県の中でも初めてだったんです。そうすると、県内の業界も活気付いてそのまま続けという形になり、自治体も復興のために何を目玉にしていうかというところで日本酒を取り上げてくれて、それによって補助金が下りて色々とイベントも開催できるようになって。実績が一つできたからこそ、次の展開に広がりましたね」

*毎年ロンドンで開催される世界最高規模・最高権威に評価されるワインコンテスト。世界中の酒類業者から最も注目されており、2007年には「SAKE部門」が創設された

酒造りにかける想い、世界に誇れる酒を会津から

「今後はオンライン販売が確実に拡大するので、ネット事業と輸出事業の拡大を考えています。その上でネックだったのは、20数年前にアメリカへの輸出をスタートした時点で、もうすでに日本酒があったこと。その中でどうやって自社商品を差別化していくのかを考えた際に、他がやってないことをまずやっていかないと。現地の卸店の方々の信用を得るためにも、どのように売られるべきか改善していく必要がありました。

アラジンボトル*はどこも出していなかったし、誰が見てもちょっと手に取ってみたくなりますよね。それに、ほまれ酒造には純米大吟醸酒、純米吟醸酒の『からはし』と『喜多方テロワール』、季節限定の濁り酒、さらに、日本酒から出来た化粧水『会津ほまれ』といったさまざまなブランドが今ありますが、海外は日本酒に対する前例の少なさからか、その楽しみ方に固定観念や先入観もないので、率直に良いもの、美味しいものを求めてくれます。

反対に東南アジアなどは日本のブランドを意識していたり、現地に自分たちの濁り酒のような食文化がすでにあるんですね。例えば、韓国ならマッコリ。すると、濁り酒そのものの付加価値は付けられないので、なかなか難しい。やっぱり国によって特徴は変わります。

今ではアメリカとカナダを筆頭にしたリクエストなどもあって、圧倒的に海外のシェアが大きい。現在は海外輸出の割合が全体の17%程度、将来的には50%まで伸ばしていきたいですね。オーストラリアはアメリカと比べてまだまだ知らない国で、だからこそ余地があると思います。また、今これだけの日本食ブームが到来していて、あちこちに日本食レストランができているわけですから、その波に乗ることは間違いなくできるかと。

インバウンドが復活してきているので、直売所も立て直していかないといけません。1日の入場者数もコロナ禍で全盛期の3分の1にまで落ち込んでしまったので。あとは並行して、コスト削減も兼ねたSDGsに取り組んでいます。

県内の若い蔵元も増えましたが、上の世代と比べても本当に真剣に酒作りと経営に取り組んでいると思います。発想が豊かですしね。自分たちの知恵だけじゃ出てくるものも限られてくるので、できるだけ若手が仕切っていく意見交換会をしています。老舗の蔵元もそこをバックアップして、今じゃもう若手に引っ張られている部分もあって。

コロナ禍や物価高や資源不足が日本に直撃している今、僕はすごく正念場に立たされていると感じます。社長に就いた時も正念場でしたが、2回目の正念場だなと思っています」

*かわいらしいお洒落なボトルに詰めた、グラス付きの商品。純米酒、濁り酒、ゆず酒など

ほまれ酒造について

ほまれ酒造は、1918年(大正7年)創業の福島県喜多方市にある酒造。代表銘柄の「会津ほまれ」をはじめ、安定した品質と絶え間ない技術向上によって、東北有数の酒蔵として知られている。

喜多方の中では3番目に若い酒蔵だが、今年創業105周年を迎え、2015年には世界的に最も権威あるブラインドテイスティング審査会の一つの「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)SAKE部門」で世界一に輝き、2016年はG7の伊勢志摩サミットにおいて各国首脳への贈答品として贈られるなど国内外でも高い評価を受けている。

1,300坪という広大な原生林を利用して敷地内に造園された日本庭園「雲嶺庵」は、庭の背景に雲の間から見える磐梯山の山頂が望め、ケヤキ、マツ、モミジ、サクラなど四季折々の顔が覗く優美な景色を眺めながら、併設された直売所の自社商品を無料で試飲することができる。蔵元ならではの新鮮な酒が常時10種類以上用意されているほか、会津の食材や同蔵オリジナルの酒器なども。

そもそも会津は「酒造り理想の地」としても知られ、福島県の65件以上の造り酒屋の半数近くの蔵元が会津地方にあるほど、清酒製造業が盛んな地域だ。その理由は、会津の豊かな自然と酒造りに非常に適した環境。天然資源が豊富で、最高品質の素材を揃えることを可能にしている。

喜多方の名水は北端にそびえ立つ霊峰飯豊山に積もった豪雪が、約100年の歳月を経て地層へと染みわたったもので、口当たりがとてもやさしく甘みが豊かな超軟質。ほまれ酒造ではこの喜多方名水を汲み上げたものを仕込水として使用している。また、冬の厳しい寒さも酒造りに大変適しており、豪雪は空気中のチリやホコリを取り除き、醸造中の雑菌の繁殖を防ぐ。このような会津ならではの風土が全国でも有数の酒処と言われる所以だ。

また、ほまれ酒造では製造する日本酒のコンセプトに合った酒米を研究し、その酒質に最適な米を選定している。地元産の酒米、夢の香、五百万石などを中心に、それぞれの酒米の特長と目指す酒質によって酒米を使い分けてクオリティを最大限に高めているのだ。

酒造りには数え切れないほどたくさんの要素が存在するが、ほまれ酒造では長年の酒造りで培ってきた匠の伝統と技をフルに活かすことはもちろん、現在では全ての作業データをこと細かに計測・確認してより良い酒造りに活かすことにも力を入れている。経験や感性といった主観的なアプローチに、数値化された客観的なデータという物差しを加え、理想の味へと導いていくために。

質の向上は再現性の上にしか成り立たない。美味しい日本酒を愉しんでもらうために、ほまれ酒造ならではの付加価値を込めた良質の日本酒を安定して造り上げ、飽くなき探求心を忘れずにさらなる進化を追求して、次の100年へ。ほまれ酒造の新たな挑戦は未来へと続く。

「ほまれ酒造」の情報はこちら

公式ウェブサイト:https://www.aizuhomare.jp
Facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100063463306133
Instagram:https://www.instagram.com/homare_sake_brewery


間近に迫る海外のイベントとして、9月11日(月)から14日(木)までの4日間にわたってシドニーのICC Sydneyで開催される「Fine Food Australia 2023」のジャパン・パビリオン内に、ほまれ酒造が出展します。飲食事業関係者の皆さま、是非お越しください。


取材:遠藤烈士/文章:武田彩愛

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チャレンジで広がる新しい世界へ!元サッカー日本代表/田代有三 https://www.jams.tv/entertainment/181393 Thu, 03 Sep 2020 02:00:04 +0000 https://www.jams.tv/?p=181393 「人生を振り返ると、サッカーばかりだった」 7歳から兄2人の影響でサッカーをはじめ、サッカー漬けの学生生活を経て、Jリーガー、日本代表と着実に夢を叶えていった田代有三さん。 30歳を過ぎたころ、「サッカーをしながら何かを […]

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「人生を振り返ると、サッカーばかりだった」

7歳から兄2人の影響でサッカーをはじめ、サッカー漬けの学生生活を経て、Jリーガー、日本代表と着実に夢を叶えていった田代有三さん。

30歳を過ぎたころ、「サッカーをしながら何かを得たい」と考え始め、新たなチャレンジとして海外に渡ることを決意。アメリカのMLS(メジャーリーグ・サッカー)のセレクションに参加するなど、紆余曲折を経てたどり着いた、次の挑戦の地・オーストラリア。

オーストラリアのクラブチーム「Wollongong Wolves(ウーロンゴン・ウルブス)」では、語学の壁に苦戦しながら、中心選手として活躍し、チームメイトやサポーターから信頼を勝ち取った。

選手を引退後は、ウーロンゴン・ウルブスのアシスタントコーチに就任し、チームに「恩返し」。現在はシドニーで子ども向けのサッカークリニックを開校し、今後はオーストラリアの地からサッカー以外のことにもチャレンジの場を広げる予定だ。

今の環境から一歩踏み出すことで視野が広がり、自らが成長できたと語った田代さんの「これまで」の経緯と、「今後」への想いに迫る。

7歳から始まったサッカー漬けの人生

兄2人がサッカーをしていて、僕もやりたいなと思ったのがサッカーを始めたきっかけです。小学校高学年の時にJリーグが始まって「プロサッカー選手(Jリーガー)」という存在に憧れを抱き始めました。

憧れから「プロになりたい」という意識に変わったのは高校生から。県内で選抜チームを組み、県対抗で試合をする国体に、福岡県選抜で選ばれました。選抜メンバーは福岡の強豪、東福岡高校の選手ばかりでしたが、強豪校の選手に負けないように努力しました。その結果、国体の試合で活躍できるようになり、そこで初めて「プロになれる」と確信しましたね。

サッカーの特別推薦枠で福岡大学に進学し、大学3年生のときにサッカー部の先生から「特別指定選手」制度の話を聞きました。「特別指定選手」は、正式には「JFA・Jリーグ特別指定選手制度」のことで、全日本大学サッカー連盟や全国高等学校体育連盟、第2種日本クラブユースサッカー連盟に加盟しているチームの登録選手が、チームの枠を超えてJリーグの高いレベルの中でプレーする機会が与えられる制度です。

いくつかのJリーグのチームから声をかけてもらいましたが、J1のトップリーグのレベルを知るため当時J1リーグのチームだった大分トリニータに指定選手として入りました。大学4年時も指定選手の話があり、次は試合の出場機会を求めるため、当時J2リーグのサガン鳥栖に入りました。夏の間の10試合にほぼ全て出場し、経験と実績が積めました。

高いレベルで力をつけた「鹿島アントラーズ」時代

大学を卒業してJ1リーグの強豪・鹿島アントラーズ(以下鹿島)に入団しました。トップレベルのチームで、周りには本当に良い選手がたくさんいました。当時(2005年)、中田浩二選手や本山雅志選手、曽ヶ端準選手といった日本代表選手も多く、プレーの個性も違うのでそれぞれ影響を受けることがたくさんありました。

中でも元日本代表の小笠原満男選手はオーラも雰囲気も違いました。「あの人についていけば試合に勝てるんじゃないか」と思わせてくれる人というか、プレーで見せる影響力を感じました。今となってはプロとして最初に入団したチームで得るものが多かったので、長く選手としてプレーができたのかなと思っています。

同じFWのポジションにはレギュラーとして鈴木隆行選手、イタリアから戻ってきた柳沢敦選手、そのほかにも外国人選手がいました。このレギュラー争いに食い込んでいければ、日本代表にもなれると考えていました。良いところは盗んでプレーに活かす。身体の強さと身体能力には自信があったので「相手に嫌がられる」選手を目指して常にプレーしていました。

2008年に日本代表に初めて選ばれたときは「やっと入った」という気持ちでしたね(笑)。当時、鹿島でもレギュラーになっていて、リーグ戦でも優勝していたので…。

自分の力でチームに貢献したい

鹿島に在籍している間、リーグ戦で三連覇しましたが、チームの選手がすごいのであって「僕の力」で優勝したわけではないというのがすごくありました。「ここぞという時にゴール決めた」手応えがなく、自分の勝負弱さを痛感していました。出場機会が減ったことも悔しくて…。

それで当時J1リーグからJ2リーグ へ降格候補だった、モンテディオ山形(以下山形)へのレンタル移籍を鹿島に打診しました。お膳立てされた状況ではなく、危機的状況のチームで活躍してJ1リーグ残留に貢献できたら、成長できるのではないか…と考えて、引退覚悟で挑みました。

山形では、残留ゴールを決めたり、チーム内の得点王になったりと、「僕の力」で貢献できたという手応えを得ることができましたね。ありがたいことに、チームを離れて10年以上経ちますが、今でもファン投票で一位に選んでもらえたり、メッセージをもらえたりしています。行ってよかったと思いますし、今でも大好きなチームです。

レンタル期間を終え、鹿島に再び戻った時は、ほぼすべての試合に出場していましたが、レンタル移籍の経験で、「今の環境から飛び出すことは自分にプラスになる」と思い始めていて、今後も新たなチャレンジをしたいと考えていました。

サッカーをしながら何かを得たい

ヴィッセル神戸(以下神戸)に移籍して2~3年目のころ、30歳を超えて「優勝も日本代表も経験できたし、これからはサッカーをしながら何かを得たい」と思い始めました。言葉も習得でき、体格も文化も違うため刺激があると思い、英語圏の海外挑戦を考え始め、まずはアメリカのMLS(メジャーリーグサッカー)への挑戦を決意しました。

MLSでプレー中の友人などを介して監督に僕のプレーのビデオを見てもらい、3チームほど練習に参加しました。契約の話もありましたが契約金が希望額より少ないこともあり、アメリカはいったん諦め、日本でプレーを継続することにしました。家族や生活のことも考えなければならなかったので…。

神戸からセレッソ大阪に移籍したあとも、海外挑戦は諦めずタイやインド、マレーシア、オーストラリアなど視野を広げて情報収集をしていました。そんな中、オーストラリアに詳しい方に連絡したところ、「Wollongong Wolves(ウーロンゴン・ウルブス)がFWを探している」と聞き、チームに加入したいという意向を伝えた3日後に正式なオファーがありました。

その1週間後にオーストラリア・ウーロンゴンに行き、チームに加入が決まりました。もともと試合でオーストラリアに来た際に、すごくいい国だなと思っていましたがまさか住むことになるとは思いませんでしたね。もちろん環境が変わることに対して恐怖や不安もありましたが、得るものもたくさんあることを知っていたので、すぐに決意ができました。

オーストラリア・ウーロンゴンでの選手生活がスタート

ウーロンゴンで選手生活をスタートしたころ、英語力をつけるため語学学校に通いながら練習に参加する生活を送っていました。英語力がないため、練習や試合の中で言いたいことが伝えられないことが一番つらかったですね。チームのメンバーから見たら僕が「よそ者」になるので、やってもらいたいプレーは自分でやる、それでもうまくいかないこともありましたがチームのメンバーを理解することを心掛けました。

サッカーのレベルは正直に言うと日本の方が上だと感じました。自分自身のプレーの面では問題なく結果も出せていましたし、監督からも評価されていたと思います。ただ2年目に、膝の故障が響き、パフォーマンスに自信が持てなくなりました。そこで引退を決意し、監督に伝えました。

引退して1ヶ月たったころ、以前から申請していた永住権の申請が通りました。オーストラリアに居続けられるということで、ウーロンゴン・ウルブスの発展に力を添えたいとチームに相談した結果、アシスタントコーチに就任しました。アシスタントコーチと言っても、実質監督のような役割が多く、非常に忙しくて責任重大でしたね(笑)。1年間の「恩返し」を終えたあと、新しいチャレンジとして拠点をシドニーに移しました。

拠点をシドニーへ!新たな試み「Mate FC」

新しいチャレンジとして、シドニーで「何を一番最初にやるか」と考えた時に、やっぱりサッカーに関することがいいなと思っていました。そこで同郷であるシドニー在住の寺本貴生くんとコンタクトを取り、彼がやっていた子ども向けのサッカースクールの様子を見に行きました。

このスクールには6歳から12歳くらいの子どもたちがいました。日本人として細かく教えている姿を見て、僕と同じ方向を見ているなと感じました。僕がオーストラリアに来て最初に受けた印象が「日本人と比べて細かいターンやステップや足の運びが悪い」だったので、基礎的なことをもっと小さいころから教えないといけないなと思いましたね。

そこで「サッカーをする以前のスポーツ能力を大事にしよう」と言うコンセプトで始めたことがサッカークリニック「Mate FC」です。対象年齢を4歳から10歳くらいに下げて、とにかくスポーツの基礎的な能力をつけることを目標にして指導しています。また、礼儀作法を大事にするよう、挨拶や言葉遣いをきちんと身につけさせる日本式を取り入れて、日本語での指導にあたっています。

クリニックには40人ほど子どもたちがいますが、遊びたい盛りの年齢なので、指導は本当に大変。けれどその中で、例えば100人のうち本気でサッカーをやりたいと思う子が5人いたらいいなー、と思っています。その子たちが大きくなって今度は「元プロサッカー選手」という立場で本気のアドバイスや指導ができたら最高ですけどね(笑)。 今はとにかく「スポーツやサッカーが楽しい、好きだ」と思ってもらえて、少しずつこのような母体が増えていったらいいなと思っています。

「今」から一歩踏み出し、視野を広げて

今いる環境から飛び出して、新しい世界にチャレンジすることは大事だなと思います。新しい友達や知り合いもできて人脈が広がりますし、視野も広がります。困ったことがあれば色んな人が助けてくれますし、さまざまなことが学べると思います。日本にいたころの自分と今の自分を比べると、考え方の幅が格段に広がりました。

たとえばサッカーでも、上手い人の中に入ってプレーしていると確実に上手くなります。周りの環境に感化されて、結果的に自分にいい影響が返ってきます。特にシドニーには活躍されている日本人の方がたくさんいるので、ありがたい環境にいるなと感じています。

「一歩外に踏み出すこと」は僕にとってプラスになることばかりでした。慣れた環境や居心地の良さの中にいるより、何かを得たい、成し遂げたいなら、やっぱり自分から動き出さないといけないと思いますね。

今後は、サッカー以外のことでも新しいチャレンジをしたい考えています。日本食レストランの経営や日本に進出させたいオーストラリアのアパレルブランドもあり、徐々に話を進めています。これからも新たなことにもチャレンジし続けている自分でいたいし、「オーストラリアと日本をつなげる」ことを一つずつ形にできたらいいなと思っています。

取材:吉田友理

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田代有三さんの情報はこちら

Instagram:@yuzo.tashiro
Mate FCウェブ:https://matefc.com/

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花と人を繋げ、命の美しさを表現するフローリスト/今野有加 https://www.jams.tv/business/153392 Fri, 23 Aug 2019 01:56:05 +0000 https://www.jams.tv/?p=153392 日本とオーストラリアの2拠点で英語教師としてのキャリアを確立させた今野有加さん。家族にも恵まれ、彼女の人生は順風満帆に思えたが、自身の子どもたちが成長するにつれて、キャリアの方向性に迷いが生じていた。 本当の幸せについて […]

投稿 花と人を繋げ、命の美しさを表現するフローリスト/今野有加JAMS.TV に最初に表示されました。

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日本とオーストラリアの2拠点で英語教師としてのキャリアを確立させた今野有加さん。家族にも恵まれ、彼女の人生は順風満帆に思えたが、自身の子どもたちが成長するにつれて、キャリアの方向性に迷いが生じていた。

本当の幸せについて考えた末、今まで築いてきたキャリアを手放すという一世一代の大勝負に出て、「フローリスト」という新しい世界に踏み入れることに。今までのキャリアとは全く異なる、花を人間に生けて独特な世界観を表現する「花人間」としての活動をスタートさせ、オーストラリアのシドニーに撮影スタジオをオープン。

花と真摯に向き合い、真っ直ぐ前を見つめ、変化を恐れず飛躍を続ける彼女の想いとは? ありのままの気持ちを語ってもらった。

※フローリスト:園芸愛好者。園芸を好み愛する人を指す

「幸せ」を追求した先に見えた新たな挑戦

日本では児童英語の先生として働いていて、オーストラリアに来てからも「J-Shineの育成コース」のトレーナーをしていました。オーストラリアで出会った方と結婚して、その後も4年くらいは英語の先生としての仕事を続けていました。

子どもを出産した後7年間ほどは主婦でしたが、ふたりとも小学校に行くようになって自分の時間ができたときに、社会に貢献したいという気持ちが芽生えました。その気持ちが生まれてからは、このまま今までのキャリアを続けていくか、全く違う業界にキャリアチェンジをするかとても迷いましたね。

お金を稼ぐためだけに仕事をするとストレスも溜まるし、私が幸せと感じていなければ、子どもたちにもその気持ちが伝わってしまう気がして、すごく申し訳なくて……。自分が幸せになって、満たされることを一番に考えようと思うようになりました。

親として子どもたちに、「この世界は楽しくて、未来は明るいんだよ」ということを見せてあげたいという気持ちが強くて、そういう意味でもキャリアチェンジをして、新しいことに挑戦したい気持ちでいっぱいでした。

※J-Shine:小学校英語指導者認定協議会

衝撃を受けた1枚の写真と下積みの2年間

今後のキャリアの方向性に迷っていたとき、ある人がFacebookに投稿していた花人間の写真が目に留まりました。その写真を見たときに衝撃を受けたのを覚えています。こんなにも「自然に生かされている人間」が表現できるんだと。作品を作っているアーティストはどんな人なんだろうと気になり、花人間の先駆者を探しました。

インターネットで調べてみると、「GANON(ガノン)」という会社が作品を手がけていることが分かりました。しかも、驚くことに自分の地元である札幌に本店があったんです!

それからというもの、GANONと一緒にビジネスをすることを目標に、結果を残すことに専念しましたね。「私は今までこれだけのことをやってきました」というものがないと、シドニーで花人間をやりたいなんて言えないと思って……。まずはオーストラリアのTAFEで2年間徹底的にフラワーアレンジメントを勉強して、フローリストの大会にもたくさん出て土台を築きました。

TAFE2年目のあるときに、先生から「NSW州で一番大きな大会があるけど出てみない?」と、学校からの代表3人のうちの1人に選んでもらいました。仲間や先生、家族からの支えがあり、その大会では1位を勝ち取ったんです! その大会で結果を残すことができたので、初めて自分の履歴書を添えてGANONにメッセージを送りました。それが彼らとのファーストコンタクトです。

目の前のことにがむしゃらに打ち込んだ日々

その後GANONからきた返事の内容は「メッセージとても嬉しかったです。帰国したときはぜひ顔を見せてくださいね」というもの。この時は、前向きな返事かどうかは分かりませんでした。

それから半年後、私が日本に帰国した際に、GANONの統括責任者とお話しをする機会をいただき、具体的なビジネスの話まですることができました。その後も何度か話を重ね、今年の4月にやっと契約を結ぶまでに至ったという感じです。

シドニーで活動を始めるにあたり、この1年間は準備として、メイクやヘア、着付け、カメラ、写真加工の方法をずっと学んでいました。GANONでも研修があったのですが、普通はフローリストとカメラマン、マーケティングの3人が各々の専門分野を担当するそうです。私は全てを1人でこなしていたので、GANONの人からも「全部1人でこなす人は初めてだ」と驚かれました。

いろんなことを急に習いだして、周りからはきっと、「この人は何を目指しているんだろう?」と思われていたかもしれない(笑)。でも、活動準備のためにたくさん投資もしたし、そのときはただただ必死で目の前のことをこなすのに精一杯でしたね。

「花を愛でること」と「命を奪っていること」の矛盾と葛藤

ある時GANONの社長と、「フローリストは花を生けるのと同時に、自らの手で花の命を断つので、やっていることが矛盾しているのでは」と話したことがあります。GANONの社長はすごく自然を愛する人。「花のために、自分たちができることは何か」をいつも考えていて、まさに少年の気持ちを持ったまま大人になったような方なんです。

社長は「ずっと悩み続けることが大事だ」と言ってくれました。悩み抜いて導き出した私なりの答えが、「尊い花の命を最大限に美しく見せることがフローリストとしての使命」ということ。命あるものはいつかは滅びる定めですが、老いていくことにも価値があり、その過程の中で花を最大限に美しく生かすお手伝いができればと思っています。

自然と人を繋げるのも、私の中では大切なこと。花と人間ってすごく似ていると思っていて、花も人間と同じように主役になったり、主役を立てたり、それぞれの個性があるんです。英語教師をしていたときは、目立つ子や恥ずかしがり屋な子の異なる個性を引き出してあげるというのが私の仕事だったので、今も昔も根本的にやっていることは同じなのかなと思います。

人も花も、意味があるからみんな存在してる。このふたつの似た命を融合させた作品を生み出せることにとてもやりがいを感じています。

花と人を繋げて一人ひとりの個性や魅力を引き出す

花人間のためのスタジオをシドニーでプレオープンさせたときに、いろいろな理由で体験されるお客さんを担当しました。出産や誕生日の記念に来られる人もいれば、中には仕事帰りにふらっと寄ってくれた方もいましたね。

スタジオに来られたのがどんな理由にせよ、撮影で使ったお花はきっと忘れないと思うんです。道を歩いているとき、もしくはお花屋さんのそばを通ったときに、「あ! この花を生けてもらったな」と思い出してくれる。私自身、自然と人を繋げることをゴールに活動をしているので、何かの拍子に思い出してくれるだけで、私の目的は果たされたという気持ちになります。

今までは植物に興味がなかったけど、花人間を通して植物の名前を覚えてくれたり。人を好きになるとその人を大切にしようと思うみたいに、自然を好きになって自然を大切にしようという考えが生まれると思うので、花人間は私が伝えたいことを伝えられる仕事だと信じています。

あと、自分の中で忘れてはいけないと思っていることは、花の魅力と個性を最大限に生かして、お客様が想像している以上のものを作るということ。そして、お客様の隠れた魅力を引き出すことができるのであれば本望です。「この顔絶対かわいいな」とか「今の顔セクシーだな」という魅力的に見えるとっておきの瞬間をどんどん残していきたいですね。

共通の想いを持った仲間と一緒にさらに上のステージへ

今はシドニーだけでの活動ですが、将来的には同じ夢や目的を持っている人と一緒に、オーストラリアで店舗を増やしていけたらと思います。そして、日本からGANONのスタッフをオーストラリアに呼んで、花人間のショーをやりたいですね!

「世界一花を愛する国を作る」がGANONのコンセプトなんですが、そのコンセプトに共感してくれる仲間をどんどん増やし、シドニーやメルボルンなど、オーストラリア各地で活動していきたいです。

ダンスやファッション、医療関係などいろんな分野の人とのコラボレーションもしてみたいですね。もし来てくださいと言われたらどこへでも行きます。

多様な表現方法が受け入れられる時代に合った「花人間」

これまでの人生で経験したこと全てが、今の私を生み出していると思いますし、無駄だったことはひとつもなかったんじゃないかな。実は、話すことがあまり得意ではないのですが、自分の届けたい想いを、花を使って形にして表現できることに幸せを感じています。

日本人は特に、自分をアピールすることや表現することがすごく苦手な人種。でも、最近ではFacebookやInstagramで自分の写真を載せる人も多いし、時代はすごく変わってきていると思います。

各々が自由に表現することが受け入れられる時代が来ているのかな。だから、花人間も必要としている人たちがいて、受け入れられているんだと思います。個人が自由に表現できる時代なので、花人間も面白く発展していって欲しいですね。

取材:西村 望美、久持 涼子
文:西村 望美

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メール:puppeteerflower@gmail.com
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投稿 花と人を繋げ、命の美しさを表現するフローリスト/今野有加JAMS.TV に最初に表示されました。

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食で笑顔と夢を未来につなぐ! アスリート専属シェフ/船岡勇太 https://www.jams.tv/gourmet/143669 Thu, 09 May 2019 06:34:22 +0000 https://www.jams.tv/?p=143669 東京の『タテルヨシノ』や、パリにある『ステラマリス』、大阪の『ラシーム』での修行を経て、大阪中之島『DUMAS』でシェフとして活躍した船岡勇太氏。2015年に日本最大級の料理人コンペである『RED U-35』にノミネート […]

投稿 食で笑顔と夢を未来につなぐ! アスリート専属シェフ/船岡勇太JAMS.TV に最初に表示されました。

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東京の『タテルヨシノ』や、パリにある『ステラマリス』、大阪の『ラシーム』での修行を経て、大阪中之島『DUMAS』でシェフとして活躍した船岡勇太氏。2015年に日本最大級の料理人コンペである『RED U-35』にノミネートされ、ミシュラン調査員が認めたコスパの良いレストランに与えられる『ビブグルマン※』を若干29歳で獲得した。

苦楽を経験した後、絶好調だった彼が得たのは、一人のアスリートのためだけに料理を作る専属シェフの誘いだった。2018年より、本田圭佑選手の専属シェフに就任し、美味しくて身体が喜ぶ料理を作り、パフォーマンス向上に貢献している。

料理に対する情熱を絶やすことなく、理想に向かいひたすら前進し続ける船岡勇太氏に、これまでの歩みと、一流アスリートの健康を支える専属シェフとしての役割、食を通して人を幸せにしたいという夢について語ってもらった。

※ビブグルマン:『ミシュランガイド』に導入された評価指標。良質な料理を手ごろな価格で提供する店舗に与えられる印

料理をはじめたきっかけは「祖父への一杯のお粥」

僕が生まれたのは滋賀県の土山(つちやま)という場所です。小さい頃から食べることが大好きで、一番好きだった思い出の料理は母が作るハンバーグ。祖母が作るきんぴらごぼうと味噌汁も大好きでした。

高校に進学したときから少しだけ料理に興味はありましたが、それを仕事にしようとは1ミリも考えていませんでした。特にやりたいこともなく、毎日深夜に家に帰宅していました。家では、祖母が僕の帰りをずっと待ってくれていたんですよ。何かと世話を焼いてくれていたので、料理をするときに不便そうにしている姿を見て、自然と手伝いをするようになったんです。

それから祖父が病気になって、家で介護をしていました。ある日、家に祖父と2人きりになった時に小さな声で「お腹すいた、なんか食べたい」と言われて、ちゃんと料理をしたことがなかったので無視していました(笑)。

でも、何度も言ってくるので仕方なく料理を作ったんですね。その時に作った料理は、「塩、米、ゴマ」を使った「お粥」でした。

お粥を食べた祖父は、涙を流しながら「ありがとう、おいしかった」と言ってくれたんですよ。その一言がきっかけで、料理人を目指そうと思いました。勉強もできないし器用でもないですが、祖父のおかげで「自分が作る料理で人を笑顔にしたい」という夢を持てたのです。

人生を変えた先輩と出会い、単身フランスへ

初めて働いた『タテルヨシノ』の先輩は本当に尊敬できる人ばかり。社会人としての意識や常識がない僕に、たくさんのことを教えてくれました。料理をしている姿がかっこよくて、誰よりも努力している背中を見て、いつかこんなシェフになりたいと思っていました。今こうして料理を続けられているのも、修行の間に出会ったシェフたちのおかげです。

『タテルヨシノ』で修行中、フランスの『ステラマリス』というレストランで働く機会をいただきました。突然のことだったので、言葉も何もわからないままフランスへ。フランスでは、毎朝6時半からスタートして、深夜1時に終わるという環境で仕事をしていました。

体力的にかなりきつかったですが、フランス人のシェフたちは仕事が終わった後、飲みに行ってたんです! あまりにも驚いたので「なんでそんな元気なの?」と聞いてみたら、「俺たちいい仕事してるだろ? お祝いしないと」と言ってきました。その時に、楽しむ気持ちが違うんだと気づかせてくれたんです。

これまで先輩に怒られないようにビクビクしながら料理を作っていましたが、仕事後に飲みに行って、生き生きと働くシェフたちを目の当たりにし、「料理は楽しんで作るべきだ」ということを学びました。

仕事が休みの日には、本場のフレンチ料理のお店へ行って食べてまわりました。いろいろなレストランを訪れているうちに、カジュアルでもやっていることは本気で、食べている一人ひとりの笑い声が聞こえるお店を持ちたいと思えるようになったんですよね。

どん底からの再起

その後、日本に戻り『DUMAS』で勤務を始めました。たくさん経験をしてきて自信があったので、生意気ながら社長に店を引き継ぎたいと伝えました。その当時は、29歳で勢いもあり、運も良かったので、ミシュランの『ビブグルマン』を最年少で取ることができたんです! それからは、コラボしたいと仕事の話が入るようになりましたね。

何もかもが絶好調で、完全に天狗になっていましたね。他のスタッフたちに偉そうに振舞ってしまい、絶対になりたくないと思っていた偉そうな先輩に自分がなっていたのです。結果、多くの人が店を辞めてしまったし、お客さんがくれる料理のコメントに耳を傾けなくなったら、お客さんもいなくなっていました。

そんな中、昔働いていた店の先輩シェフに再会したのです。店の現状を伝え、相談したところ「お前そんなんじゃ料理できへんわ。その時点で料理向いてない。誰の為に料理してるの? 俺はスタッフとお客さんのためにしてるよ」と言われたんです。ハッとしました。

これまで料理を美味しく作るのが料理人の役目だと思っていましたが、人と向き合うことの大切さを気づかせてもらいました。その後は、料理だけではなく、仕込みや買い出しも後輩たちと一緒にするようにしたんです。そうやって過ごしていると、後輩たちも喜んでくれて、店の雰囲気がよくなっていって、自然とお客さんも増えていきましたね。

人生をかけた大きな決断! 本田圭佑選手の専属シェフに

シェフとして働いている中で独立したいという気持ちが強くなり、独立するために店舗用の物件を探していました。そんな時に、タイミングよく沖縄にある『星のや竹富島』でシェフとして働かないかと誘われたんです。これからはそこで経営の勉強などもしていけると思いましたね。

住居なども全て用意してくれる高待遇の条件で「よし、行こう!」と決めた矢先、本田選手から連絡がきたんです。実は、親しい知人から「船岡さんにぴったりの仕事があるよ」と言われて、軽い気持ちで専属シェフ募集の案件に自分のプロフィールを送っていたんです。

びっくりしたのは、プロフィールを送った次の日に本田選手から連絡がきて、直接本人と話したこと! 話しているうちに少し熱くなり、「人を笑顔にする料理人になりたいです!」と自分の夢を伝えたら、「勇太さんの料理で僕を支えてください」と本田選手が言ってくれたんです。びっくりしすぎて、電話越しで泣いてしまいました。

専属者シェフとして働くことが決まったのですが、『星のや竹富島』でシェフとして働く契約をしていたので、予定通り一度沖縄に行きました。怒られる覚悟で「辞めさせてください」と土下座し、専属シェフの話をしました。どんな罵倒も受ける気持ちで説明したんですが、最終的には応援してくれたんです。その時の恩は今でも忘れません。

一流アスリートの食事を考えるうえで重視していること

選手や食材と会話をしながら料理を作ることを一番重視していますね。毎日市場に行き、自分の目で見て美味しそうな食材を選んでいます。そして、なるべくシンプルで何を食べたか分かるようなメニューを考えますね。もちろん塩やオイルなどにもこだわって、身体にいいオーガニックのものを取り入れています。

本田選手は食事の後に「美味しかったです」と言ってくれる人。毎回詳しく料理の説明をして食べてもらっています。料理に込めた想いを伝え、本人に納得して美味しく食べてもらうことが、身体だけでなく心も健康にする秘訣だと信じているんです。

試合終わりにはよくステーキを出します。栄養学的には、夜にこってりとした料理を出したらダメだと言われるかもしれないです。でも、本人が楽しみにしている料理を僕は出してあげたい。ステーキがこってりとしている分、野菜をスムージーにして出すなど工夫をして、睡眠の質が落ちないように気をつけていますけどね。

選手に美味しく食べてもらって、モチベーションを高めるのも専属シェフの役目だと思っています。

真心を込めて選手のためだけに作る料理

僕にとって、「身体が喜んでいる」「パフォーマンスがよくなった」と本田選手から言っていただけることが、なによりのご褒美です。

「今日はどんなものが出るのかな?」と楽しみにしてくれているので、彼を驚かせようとより良いメニューを考え、1品1品、喜ぶ顔を見ながら作っています。僕が超一流プレーヤーの本田選手の身体を作っていると思うと、ぞくぞくしますね。

でも、相手の健康を預かっているというプレッシャーは感じています。1回の食事で病気になってしまう可能性があるので。それは本田選手だけではなく、家族や所属チームの関係者たちにも迷惑をかけることになります。もし、彼がプレーできなくなったら、全員を露頭に迷わすことになる。だから、彼が怪我をした時は自分のせいだと思うほど、真剣に向き合っています。

そう思えるようになった背景には、本田選手からの影響があります。彼は、常に周りの人のことを第一に考えて生活している人なんです。人の事を考えて動いているので、困っている人がいれば助けてあげるんですよ。

「料理で人を幸せにしたい」と再確認したカンボジアへの旅

ある日、本田選手の付き添いでカンボジアに行くことがありました。とても綺麗とは言えないキッチンで、カンボジア人と一緒にカレーを作ったのですが、そこで作ったカレーを食べたら、見事に食中毒になったんです。その時は、カンボジアが嫌いになりかけましたね(笑)。

でも、翌日にカンボジア人の女の子が、僕の体調を心配して生姜湯を持ってきてくれたんですよ。言葉が通じなくても、お互いに想い合えば心が通じ合う。そして、食べることや飲むことから得られる幸せは、世界共通なんだと身をもって感じましたね。

カンボジアに行くようになってから、彼らの食生活に興味を持ちました。ある日、彼らが食事をしているときに「これは美味しいの?」と聞いてみたら「農薬がたっぷり使われているし、美味しいとは思わない。オーガニックの食材が安全だと知っているけれど、これを食べないと生きていけない。良いものを食べられるほどお金がないからね」と言ったんです。

彼らも知っていながら変えられないこの現状に、カンボジアはこのままではダメだなと思いました。以前までは、「誰かがなんとかするでしょ」と他人事のように感じていたんですけど、誰も何もしないからこんな状況が続いているんですよね。そんな中、本田選手はカンボジアを救いたいと毎日のように話していて。僕は自分の事しか考えていないことに気づきました。

本田選手は常に勉強をし、努力をしています。そんな彼から強く影響を受けて、自分が出会った人、これから出会う人を幸せにしていこうと考えるようになりました。「サッカーで人を幸せにする」というのが彼の夢であるならば、「料理で人を幸せにする」というのが僕の夢です。

時代はデジタル。でも僕はアナログで料理を表現したい

カンボジアに行って再確認したのが、僕達は食べられるものを平気で捨てているということ。これってどうなのかなと。カンボジアの人たちにとっては、その捨てられた食べ物ですら安全なのになと考えちゃいます。カンボジアへの旅行がきっかけで、料理を通して何ができるのかを考えるようになりました。

時代はデジタル化が進んでいますが、僕はアナログの良さをもっと表現していきたい。市場は既製品の食べ物で溢れていて、大量生産で作られた食べ物には愛情がこもっていないんですよね。アナログの方が人間味があって良いじゃないですか。

今、多くの人が「食材はオーガニックがいい」と言っていますが、もともと世の中の食材はすべてオーガニックでしたよね。人がデジタル化しすぎて、それを壊していったんです。だから、もう一度アナログに戻すことで、自然とオーガニックが当たり前になると思うんです。

僕たちが、今から始められることはたくさんあります。たとえば、「食べきれない量の料理は注文しない」「頼んだ料理は全部食べる」「信頼している農家から食材を買う」とか。これらは、もっと考えて取り組んでいかなければいけない課題だと思います。

次は、挑戦する人の夢を応援できる料理人に

既製品の食べ物は大量に作られていますが、実は日本の飲食業界って人手不足なんですよ。レストランで通用しなかったから料理人を辞める人を今までに見てきましたが、そんな風に諦めてほしくないです。一人ひとりの強みや個性を活かせる料理人になれるように手助けしたいですし、やりたい道で料理を作れる機会を増やしていきたいです。

今後日本に帰国する予定なのですが、今年の10月に自分の店を持つ計画をしています。僕は料理人なので、最終的なゴールはミシュランの一つ星を取ること。あと、料理人たちの働く環境も変えていきたいです。頑張った人は報われるようなお店にしたい。

運や出会いが良かったから活躍できている人もいますが、出会いに恵まれることは、その人の努力の結果だと思うんです。こんな人に会いたいとアンテナを張って過ごすことや、この人みたいになりたいと努力することがどれだけ大事かということは、僕の経験から自信を持って言えます。

30代になるまでは無名の料理人だったけれど、自分を信じて行動したら誰かのためになれたんです。だから、シェフの卵たちに「目標や夢を持って!」と伝えたいですね。何歳になっても夢は叶うんだよって。あと、今僕がこうやって活躍できているのは、周りの人たちのおかげです。誰かに何かをしてもらったら、次は2倍で返そうと思っています。だから、次は誰かの夢を叶えられる人になりたいです。

総じてぶれない想いは、食を通して人を幸せにすること。料理人は2つの手で人を幸せにすることができます。だから、これから活躍する人たちは、料理人として誇りをもってほしいです。

 

取材:西村 望美
文:會澤 貴美代


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国境を越え愛を繋ぐ「ウェディングフォトグラファー」/野尻勝一 https://www.jams.tv/business/132777 Thu, 07 Mar 2019 07:04:41 +0000 https://www.jams.tv/?p=132777 カメラのデジタル化やスマートフォンの普及が進み、誰でも気軽に綺麗な写真を撮ることができる時代になった。写真を撮るという行為がより身近になり技術が大衆化した今、プロのフォトグラファーとしてすべきことは何か。 ウェディングフ […]

投稿 国境を越え愛を繋ぐ「ウェディングフォトグラファー」/野尻勝一JAMS.TV に最初に表示されました。

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カメラのデジタル化やスマートフォンの普及が進み、誰でも気軽に綺麗な写真を撮ることができる時代になった。写真を撮るという行為がより身近になり技術が大衆化した今、プロのフォトグラファーとしてすべきことは何か。

ウェディングフォトグラファー、野尻勝一。20年以上の間第一線で活躍し、1,300人以上のカップルの幸せな瞬間を写真に収めてきた。

NSW州の「TOP 10 ウェディングフォトグラファー」に8年連続選出。彼に撮影して欲しいと、オーストラリア国内外から予約が後を絶たない。

ウェディングフォトグラファーという垣根を越え、昨年からアメリカ・ニューヨークタイムズ社のオーストラリア支社専属カメラマンとしても活躍。一度ウェディング撮影ワークショップを開けば、海外から参加者が訪れ、彼のもとで学びたいと毎日メールが届く。

プロのフォトグラファーとして、確固たる地位を築いてきた野尻勝一氏に、業界の移り変わりや、同性婚の合法化によりますます多様化を見せるオーストラリアのウェディング事情など話を伺った。

英会話学校の営業部長から単身オーストラリアへ

出身は京都の宇治です。日本では英会話学校の営業部長をずっとしていて、英語環境のお仕事だったので、オーストラリアへ来る前からある程度、英語でのコミュニケーションはできたほうだと思います。

ただ、もうちょっとブラッシュアップしたいなということで、1996年に仕事を休職して渡豪しました。1年間だけの滞在の予定がそのまま残りました、というありがちなタイプでしょうか(笑)。

貯金20万円くらいでオーストラリアへ来たので、今のワーキングホリデーの方々と同じように、当時は小さなアパートをシェアして、洋服屋さんでアルバイトしながら生計をたてていました。

ウェディング会社の支社長からフォトグラファーへ転身

オーストラリアへ移住後、大手のウエディング会社でウエディングプランナーさんやフローリストさん、カメラマンさんなどをまとめる支社長をさせていただいていました。

オペレーションからプランニング、挙式会場から裏舞台まで、ウェディング業務全般のマネジメントを任されたお陰で、写真撮影に限らずウェディング全般の知識やノウハウも得ることができました。

独立を考えた時に、クリエイティブな仕事をしたいという気持ちとカメラへの興味があったので、ウェディング業界の中でも最もユニークであり、自分の個性やスタイルを引き出せるフォトグラファーという道を選ぶことにしたんです。

フリーのフォトグラファーとして独立し、その後2005年に写真・動画撮影の会社「シドニー・クリエイティブ・フォトグラフィー」を立ち上げ、現在はローカルスタッフの5名体制で、主にウェディング撮影やイベント撮影をしています。

カメラにのめり込んだのは意外にも渡豪後だった

カメラとの出会いは、多分中学生の頃に父の持っていたフィルム仕様のカメラだったと思います。

父のカメラは、フィルムを入れるのも難しいとても古いもので。シャッターを押すたびにゼンマイをグリグリ巻いていたのをすごく覚えています(笑)。

白黒の古いアンティークのカメラだったので、ちょうどその頃人気だった「写ルンです」という使い捨てカメラを使うことが多かったですね(笑)。

オーストラリアへ移住した頃から趣味として、一眼レフの魅力にものめり込むようになりました。

一流から学ぶということ

 

勉強というとおこがましいのですが、私は以前から「一流と呼ばれるアーティストから学びたい、体感したい」という気持ちが強くありました。

撮影技術だけでなくプロのフォトグラファーとしての熱意や、アーティストとしての在り方そのものを、世界を股にかける数々のトップフォトグラファーの方々から、長年の間いろいろな角度で学ばせていただきましたね。

その後は、自分のスタイルとビジネスモデルを確立することに力を注ぎ、気持ちがぶれないよう信念を貫いて、真っ直ぐな気持ちで経験を積んできました。

今でもトップアーティストの方々と撮影会や討論会みたいなものを開催して、情報や作品、フィードバックをシェアしたりとお互いに良い刺激を受けあっています。

「ウエディング・フォト・ジャーナリズム(Wedding Photography Journalism)」

ウェディング撮影のスタイルにもいろいろあるのですが、私は「ウエディング・フォト・ジャーナリズム(Wedding Photography Journalism)」という、ナチュラルな瞬間をドキュメンタリー方式で写真に収めていくスタイルで撮影させていただいています。

私が撮影した写真を次の世代に見せた時にも、恥ずかしくて照れてしまわないような、タイムレスでスタイリッシュ、そして笑顔いっぱいな写真を撮影するよう心がけています。

よくウェディングは「ストーリー・テリング(Story Telling)」と言われるのですが、当日どんなことがあったのかを一枚一枚の写真から思い出して話ができるような作品を残したいと思いながら、常にカップルのことを考えてシャッターを切っています。

アーティストは自分のこだわりが強いことが多いのですが、ウェディング写真に関しては作品の最終地点がお客様であることを常に意識して、自分の変に強いこだわりがお客様の意向に反しないよう、フレキシブルに対応することも必要だと思っています。

業界のトップレベル「ウェディングフォトグラフィー」

ウェディング撮影は、やり直しはきかないので、毎秒が一発勝負。朝から晩まで10時間~12時間の間、さまざまな瞬間を早く、綺麗に、確実に、そしてそれをコンスタントに撮影することが求められます。

晴れていたのに急に曇ってきたり、屋外から屋内に移動したり、急に歩き出したり、振り向いたり、表情が変わったり、もちろん背景も光の入り方も目まぐるしく変わる中で、 秒刻みでバリュエーション豊富な写真を1000枚近く撮影しています。

目つむり写真にならないよう、お客様のまばたきのタイミングを見ながら撮影したりもしてるんですよ(笑)。さまざまな撮影業務の中でも、ウェディング撮影はかなり特殊な技術が必要だと言われてます。

「友達にカメラマンがいるから……」と、プロのウェディングフォトグラファーを雇わない方もいらっしゃるのですが、ウェディングフォトグラファーと、ファッションフォトグラファーは、料理界で例えると、寿司シェフとパティシエくらいの違いがあると言っても過言ではないです。

なので、これから結婚予定のカップルには、素敵な写真を残して欲しいですね。

TOP 10に選ばれ続け、国内外へと広がる活躍の場

お客様からのレビューやメーカーさんのニコンやキャノンの審査員など、さまざまな組み合わせて評価されるNSW州の「TOP 10 ウェディングフォトグラファー」に昨年も選ばれました。

登録されているプロのカメラマンはNSW州で700人ほどいて、その中でウェディング専門の方が半分くらいだと言われています。

それを機会に日本でも仕事をいただいて、ウエディング雑誌「海外ゼクシィ」の撮影をしたり、ブライダルブランド「Vera wang(ヴェラ・ウォン)」や桂由美さんのウェディングコレクションの撮影をしたりしました。

日本の芸能の方だと、渡部直美さんや滝沢カレンさん、ローラさんの撮影も経験させていただきました。

ウェディング以外の撮影ですと、ニューヨークタイムズ紙の登録カメラマンとしても活動していて、政治的・社会的問題のドキュメンタリー撮影をしています。

オーストラリアのウェディング業界から見た多様性

オーストラリアのウェディング業界も、10年前と比べてどんどん多様化が進んできているように感じています。

以前は、白人同士やアジア人同士の結婚が比較的多かったのですが、最近では国際カップルの比率もずいぶん増えましたね。

例えば、旦那さんがギリシャ人なので、最初はギリシャ式のスタイルで、途中から着物に着替えて日本式のスタイルに変えるなど、スタイルや宗教、お客様のこだわりに合わせて、ウェディングも国際化されている気がしますね。

日本では「感動のウェディング」といった演出で、花嫁さんが感動して泣くことが多いですよね。オーストラリアではもう少しカジュアルで笑いがいっぱいのお祝いパーティーといったイメージ。カルチャーの違いかもしれないですね。

空中でも海中でもこだわりをカタチにする

私のお客様は90%がローカルの方なのですが、最近は海外ウェディングもオージーの中で人気なんですよ。去年はハワイや日本、バリ、タイ、マレーシア、ブラジルまで撮影に行きました。

タイのプーケットで撮影させていただいた時は、象の上に乗って撮影したいというカップルの方がいらっしゃいましたし、グレートバリアリーフでは海に潜って指輪を交換したいという少し変わったリクエストもありましたね。

あと、SBSの撮影でヘリコプターライドで空中撮影もやりました。12月31日の11時59分にハーバーブリッジの上で結婚したいという方もいましたが、こちらは実現しませんでした(笑)。

今後もオーストラリアのウェディング業界は、目まぐるしく移り変わり、ますます個性的で型にはまらない姿へと展開していくのではないでしょうか。

同性婚の合法化「LOVE IS LOVE」

去年からオーストラリアでも同性婚が合法化され、同性カップルの撮影が本当に多かったです。日本を含むアジア諸国の同性カップルが、オーストラリアで結婚されることも増えました。

法律上結婚することができず、長い間待っていた方が本当に多かったので、ゲストもカップルも大泣きして、とてもエモーショナルなウェディングが多いです。そして披露宴の盛り上がり方は、2倍くらいかもしれません。笑

オーストラリアにも同性婚に反対される方はいらっしゃると思うんですが、家族や友達の中にLGBTの方がいると「全然変なことじゃないんだな」と、みんなの考え方が変わっていくと思うんですね。

私は同性婚に関しては「LOVE IS LOVE」だと思っています。「同性婚は全然変なことじゃない、ごく普通」ということを、私の作品を通して伝えられたらなと思っています。

写真家から任せられるプレッシャーと喜び

一度、新朗様が世界的に有名な写真家の方で、新婦様がキャノンで働いている方だった時があるんです。そうすると、披露宴はキャノンで働いている方ばかりじゃないですか。社長さんとかも来られていて。

みなさんすごくいい型のカメラを持ってらっしゃるんですよね。それこそ100万円超えの機材を使う方や、まるでアフリカの野生動物でも追うような超大型レンズを持っているフォトグラファーまでいらっしゃったんです(笑)。

新郎様もゲストの方々もプロのフォトグラファーなので、私が撮影している時もこちらを見られているのが分かるんです。プロのフォトグラファーの方から撮影をお願いされるのは嬉しいことですが、今までで一番プレッシャーを感じた撮影でした。

誰でも気軽に綺麗な写真を撮ることができる時代

2000年以降を機に、カメラ機材もフィルムからデジタル化し、その後スマホの流通によって「誰でも気軽に綺麗な写真を撮ることができる時代」になったと思うんですね。

昔みたいな「一列に並んで、はいチーズ」といった記録写真は、もはやプロのフォトグラファーの仕事ではない時代に突入したのだと感じています。

記念撮影はご家族やお友達のスマホに任せて、プロとして躍動感あふれるアーティスティックな写真や、一枚の写真からウェディング当日のストーリーが繰り広げられるような作品を撮り続けていければと思っています。

大切な瞬間を逃さないように、コンスタントに綺麗な写真を何百枚も撮り続けるのはプレッシャーでもあるのですが、すごくチャレンジングな職人業務だと感じています。

世界と溝の広がる日本のウェディングフォトグラフィー

日本とオーストラリアのウェディング業界は全然違いますね。日本ではまだまだ記録写真というイメージが定着しているようで、残念ながら日本の技術は世界的に見てもずいぶん遅れていると言われています。

カルチャー的なものもあるとは思うのですが、日本のウェディング業界は大手挙式会場が自社カメラマンを推進しているようでフリーのウェディングフォトグラファーが自由に活動することを制限されてしまっているようなのです

それによってプロのウェディングフォトグラファーとして生計をたてることが厳しいので、なかなか世界レベルのウェディングフォトグラファーが育たないのだと言われています。

今、カメラマンに求められているもの

きっとどの職人さんも同じだと思うのですが、フォトグラファーにとって、撮影業務は末端業務の一部でしかありません。

トップクオリティーの作品を収めるための撮影技術はもちろんですが、いちビジネスパーソンとして、マーケティングや営業、事務・経理、PR、ブランディング、カスタマーサービス、人事など、マルチにこなせる人が求められると思います。

「写真が撮れるからフォトグラファー」「料理ができるから料理人」という時代は過ぎてしまったのかもしれないですね。

今後はフォトグラファーとしての撮影技術があることはもちろんですが、それ以上のプラスアルファが求められるのではないでしょうか。

「日本の業界を変える」ウェディングフォトグラファーの未来とは

実は、プロのウエディングフォトグラファーのためのワークショップを年に2回開いています。プロのカメラマンのアシスタントとして長年従事していた方や、ファッションや広告撮影からの転向希望の方がほとんどで、はるばる日本から参加してくれる方もいらっしゃるんです。

すでにカメラの知識も豊富で、とても綺麗な写真を撮られる方がほとんどですが、やはりウェディング撮影の特殊技術と野外での光のコントール方法の習得を希望される方が多いです。また、撮影技術以外の業務の大切さも学んでいただいています。

綺麗な写真を撮れる人はごまんといる中、今後は写真撮影の技術や経験だけにとらわれない、一握りだけが残っていける厳しい世界になると思います。

カメラ機材も撮影技術もトレンドもクライアントの意識も変化しているので、私自身もそうですが、今以上の技術と経験、そしてフレキシビリティーが求められていくと思いますね。

将来的には、日本の大学や専門学校などでワークショップを開催し、世界に通じるウェディング・フォトグラフィーを日本で広げていけたらなと思っています。

 

野尻勝一/Katsu Nojiri

1996年に渡豪。その後日系大手ブライダル企業の海外支店でブライダル経営・管理に従事。後にフリーのウェディングフォトグラファーとして独立し、2005年に写真撮影・動画撮影の会社「シドニー・クリエイティブ・フォトグラフィー」を立ち上げる。

海外の有名ウェディングドレスデザイナーのコレクションをはじめ、芸能人やスポーツ選手の撮影や、ウェディング雑誌、商業用撮影、イベント撮影、コーポレート撮影と多岐にわたって撮影業務に従事。

2010年以降NSW州にて「トップ10ウェディングフォトグラファー」に選出され、毎年数々の賞を受賞。オーストラリア在住の日本人写真家として信頼と実績を築く。シドニー・パークハイアットホテルを始めとする、5つ星インターナショナルホテル、グランドパシフィックグループの「専属フォトグラファー」、ニューヨークタイムズ社の写真家として従事。

シドニー・クリエイティブ・フォトグラフィー(ウェディング、コーポレート撮影、イベント撮影)
Photography by Katsu Nojiri(ウェディング撮影)
Instagram

 

取材・文:岩瀬まさみ

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静と動、白と黒、豪と日。「字」の美しさを追求する書家/矢野仁 https://www.jams.tv/business/134581 Thu, 07 Feb 2019 01:00:02 +0000 https://www.jams.tv/?p=134581 福岡県出身。オーストラリア政府公認アーティストとして活躍する書家矢野仁(れん)氏。力強くかつ繊細な美しさを持つ作品はたくさんの人びとに認められ 、日本人初となる書家としての永住権を獲得した。 巨大な紙と筆を使ったダイナミ […]

投稿 静と動、白と黒、豪と日。「字」の美しさを追求する書家/矢野仁JAMS.TV に最初に表示されました。

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福岡県出身。オーストラリア政府公認アーティストとして活躍する書家矢野仁(れん)氏。力強くかつ繊細な美しさを持つ作品はたくさんの人びとに認められ 、日本人初となる書家としての永住権を獲得した。

巨大な紙と筆を使ったダイナミックなライブパフォーマンスは、言葉の壁を越えて多くのオーストラリア人を魅了する。昨年12月の「Matsuri Japan Festival 2018(祭りジャパンフェスティバル)」で、オープニングを飾り観客を魅了した「大書パフォーマンス」も記憶に新しい。

2010年に発表した作品「ふるさと」は、日本外務本省により日本の国有財産として承認され、現在はキャンベラの日本大使館に収蔵されている。時に力強く、時に繊細なタッチで書かれる作品は、ここオーストラリアで唯一無二の存在感を放つ。

日本書道の魅力と文化の紹介および継承を目的とした書道教室「RENCLUB」の運営を始め、月に一度のバルメインの和風旅館・豪寿庵でのワークショップ、2013年に映画「The Wolverine(ウルヴァリン)」の制作では書家として、2016年に公開された「Gods of Egypt(キング・オブ・エジプト)」ではセットフィニッシャーとして携わるなど、書を通じた活動は多岐に渡る。

またシドニーの老舗食料雑貨店である「東京マート」や「だるまグループ」のレストランの看板文字など、市内各地でその書を目にする機会も多い。

これまでにさまざまな輝かしい成功を収めた矢野仁氏の素顔に迫る。

高校の書道教師に憧れた幼少期?

小さなころから書道塾に通っていました。その時に教わっていた先生が、私の高校入学と同時に同じ高校に書道教師として赴任してきてと、その先生とはいろいろと縁がありました。

高校生ながら、傍目で見ていて感じることが多くて。先生は公務員だから生活は安定しているし、奥さんが書道塾を経営していて、そちらでも収入があって……。大きな家も建てたし、なんて充実した人生なんだろうと、そのスタイルに憧れていて(笑)。

書道教師になりたいという思いを胸に、東京学芸大学の書道科に進学することになります。

教員免許を取得したものの、書の道を歩むことに

東京学芸大学4年生のとき早々と教員採用試験の受験を諦め、当時アルバイトでお世話になっていた河合塾立川校の校舎長に相談して、卒業後は正社員として河合塾美術研究所で働き始めることに。

また、その時に出会った同僚が、その後の人生を大きく変えるきっかけになります。

書家としての活動も続けていたのですが、当時は「書道だけ」をやっていても自分の作品イメージを表現しきれないという気持ちが根底にありました。そこで、河合塾で働きつつ、一念発起して多摩美術大学の二部デザイン科を受験しました。

多摩美術大学ではデジタルグラフィックデザインを学びました。平面だけで終わらない奥行きなど、何か別の形を使って書道が表現できないかなと模索をしていましたね。

同僚を尋ねたことがキッカケとなり、単身シドニーに渡る

数年後、河合塾を退職した後に、当時ワーキングホリデーでシドニーで働いていた元河合塾同期の友人を訪ねました。彼は日本人以外の友達が多く、飲みに行って仲良くなった人たちに、「こんなことをやっているんだよ」と作品の写真を見せる機会がありました。

話の種にと持参した写真が、「グッド!」と評価され、その時は「なんか褒められた!」「オーストラリアでやっていけるんじゃないか?」と、手応えがあったような気がしたんですよね。

海外で働きたいという発想がなかったのですが、会社を辞めて今後どうしようか考えている時だったので、学生ビザでオーストラリアにやってきました。

オリンピック選手、世界的ミュージシャン、そして書家

オーストラリアに移住してからは、永住権取得を目指しました。

永住権が取得できると聞き、はじめはビジネス学校に通いました。いざ卒業する頃になると状況が変わってしまったのか、「今はビジネスでは永住権は無理だよ」と言われ、可能性が残っていたITの学校に進学し永住権取得を目指しました。

しかし、またITの学校を卒業する頃になると状況が変わっていて、ITでも永住権取得への道が閉ざされてしまいました。

学校へ行く資金も底をつき、学生ビザの期限も迫っていた自分に残された可能性は「書道」のみでした。書家としてスペシャルスキルのアーティスト部門で永住権を申請するために、ビザのコンサルに電話で相談を持ちかけましたが全く相手にされず、3カ所から断られてしまいました。

スペシャルスキルで永住権を取得できるのは、ほんの一握りの選ばれた人たちで、オリンピック選手や世界的に活躍するミュージシャン、芸術家のような人たちだけが永住権の可能性があると言われていたので、「書道をやっています」というだけでは永住権は取れないと散々言われましたね。

諦めかけていた時に、1カ所だけ「永住権を取得できなかったとしても返金はできないけれど、申請するだけなら対応しますよ」と言ってくれたエージェントがいて、ダメもとで申請をしたところ、4週間であっさりビザがおりました(笑)。

それから生活がガラッと変わりましたね。スペシャルスキルのアーティストとしてオーストラリアからビザをもらっていることになるので、「書道アーティスト」と胸を貼って名乗ることができました。

また、永住権取得がきっかけとなり、領事館や大使館からいろいろなお仕事の話がくるようになりました。

豪日の2カ国でアーティストとして認められた実感

アーティストとして永住権を取得した後は、シドニーのガバメント・ハウスで開かれた作品展「アート・オブ・フラワーズ」で、フラワーアレンジメントの柳沢さんの作品のバックに掛け軸を書いて欲しいという依頼がありました。それが、永住権を取ってから一番最初の大きな仕事でしたね。

書道は1枚の紙に絵のように長い時間をかけて接するわけではないんです。1枚の紙に接するのは短く、小さいものなら秒単位のこともあります。

書道は一発勝負と言いながら、何枚も納得のいくまで作品を作ります。「アート・オブ・フラワーズ」では、掛け軸の作品をそれぞれ100枚ずつ書いたので、軽く400枚以上は書いていることになります。

2010年に私の作品である「ふるさと」が、日本の外務本省に認められ、日本の国有財産としてキャンベラの在オーストラリア日本国大使館に収蔵されました。これによって、日豪の2カ国でアーティストとして認められたのは、たいへん光栄なことでした。

永住権が取れた時は、ただ「ビザが取れた! オーストラリアで生活できる」くらいでしか考えていなかったですが、外務本省から正式に自分の作品が認められたのは、私の書家人生の中でも大きな出来事でした。

「大書パフォーマンス」で豪日を繋ぐ架け橋に

オーストラリアでのメインの仕事は書道教室の運営で、依頼があればイベントで大書パフォーマンスをします。チャツウッド・コンコース内のアートギャラリーで展覧会をすることもありますが、やっぱりオーストラリア人に来てもらうことは難しい……。

逆に大書パフォーマンスは、「作品を書く」というより「動きを魅せる」こともできるし、なによりもライブなので喜んだり、感動したりしてくれるオーストラリア人はやはり多いですね。普段の作品作りではしないような、大きな動きをつけて書くことは、見ているみなさんにとっては新鮮だと思います。

「大書パフォーマンス」をする時は、盛り上がりを意識して、魅せることに集中して取り組んでいます。

「いち」「に」のリズムで伝える書

書のパフォーマンスでは、日本語を知らないオーストラリア人でも盛り上がってくれますが、書道を教えるとなった時に、日本語の壁が立ちはだかります。

ちょっと筆で作品を作りたい、ちょっと漢字で何か書いてみたいという人たちは、ワークショップに来てくれるんですけど、そこから継続して教室に来てもらうことは難しい。よっぽど日本文化に興味がある人じゃないと書道教室には通いませんね。

そこで、書道の体験を楽しんでもらえるように、特にオーストラリア人に教える時は、楷書なら「いち」「に」「さん」のリズムで運筆するところを、「いち」「に」で書くことのできる、木簡調で書いてもらうようにしています。ルールは少ない方がいいのでその方が簡単だし、案外アートっぽく見えるんですよね。

また、通常の稽古では半紙を使うんですけど、自分が揮毫した作品を持ち帰れるように、少し分厚い紙を用意して、作品として持ち帰ってもらえるようにするなど、オーストラリアの方にも満足してもらえるよう工夫しています。

紆余曲折の末にたどり着いた「餅は餅屋」という考え

若かった時は、「何か新しいことをやりたい!」とずっと考えていたのですが、本当に古典が大事だなと思うようになるには、ある程度のキャリアを重ねないとわからないものだと思います。

教える側に回ったときに、自分たちがやらされていたこと、受け身で今までやっていたことの大事さに気がつきました。ある時点から、専門家はすごいなという考えが生まれたんです。

この「楽」の漢字を使ったイラストのデザインの名刺は、ドイユウコさんというグラフィックデザイナーの人に頼んで作ってもらいました。名刺を自分で作ろうと思えば作れたんですけど、専門家に任せてみると一味違ったものができるので、やっぱりすごいと。

もちろん美大に通ってもいたので、イラストを自分で描くこともできますが、イラストレーターの方と戦って勝てるほどすごいのかと言われるとそんなこともないし、そこで私は何ができるかと考えたときに、やっぱり自分は書道だなと。

専門家の人はやっぱり専門家だと思います。自分でなにもかもの専門家にはなれません。だったら自分は自分の専門で、もう少し高みに行けるようにやるべきことがあると思います。だったらやっぱり書道で勝負していくしかないんですよね。

「黒」よりも「白」を意識させる

書道教室の生徒さんたちには、練習で白黒反転した作品を作ってもらうこともあります。白と黒を逆転させることによって、文字の内外の空間への意識づけをして、白の大事さを植え付けていっているんです。

その甲斐もあってか、生徒10人が応募した中華系新聞社の主催した書の大会で7人が入賞しました。彼らの実力では十分入選できるレベルなんですが、それを日本ではなく中華系の大会で入賞したのは、その作品が中国の人からも「いいもの」と評価されたということだと思います。

入賞した生徒さんは上手に揮毫するんです。書道教室にいるうちに字が上手くなってくれるのはやっぱり嬉しいですね。

書道の5段、10段を持っている人は字がうまいと思われがちですが、その人たちが長けているのは、「先生のお手本をコピーする能力」。字が上手い能力でも、その人が字を書ける能力でもないんですよ。

求められていることは、先生のお手本をコピーするだけの能力ではなく、さまざまな法帖(空海、最澄など昔の人が残した優れた書の手本)にある書の運筆技術や空間処理、また呼吸法などを取り入れた上で、自分なりの美学に従った字を書く能力です。

それを自分で書けるところまでにいくには、大きなジャンプがいります。書道何段とはまた違う大きなハードルを越えなければいけません。

書の伝道師として大切にしていること

大学の学科としての「書道科」という言葉は以前からあったんですけど、「書道家」というのは比較的新しい言葉なんです。

書を生業とする人たちは「書道家」ではなく「書家」と呼ばれていました。現在、各種メディアで活躍されている方が、書道家を名乗られていますが、それには書家とは一線を画しているという意志が存在するのかな思っています。

書道家の方を批判している訳ではありません。ルックスが良かったり、おしゃべりが上手だったりするので、そこから人気の火がつき、結果的に書道の普及にもすごく貢献していると思うんですね。

ただ、伝統的な書道をストイックに追求している書家の作品と、書道家の作品は確実に違う。もちろん書道家といってもさまざまな方がおられますが、中には独りよがりに見える作品を披露している方もいます。書は文字を扱いますのでルールが存在します。

そのルールを無視し、勝手に極端な変更を加えたのでは文字と呼べない場合もでてきます。テレビでそんな書道家の方の作品が披露されているのを見るたびに、これまでの伝統的な書道が間違った形で伝承されていくのではないかという危機感を覚えることもなくはありません。

中国文化を日本的に消化してここまで繋がってきた書道を、オーストラリアで紹介する大きな役目が自分にはあると思っています。オーストラリアで書の文化を伝えていけるのは私しかいないので、これからも責任を持ってクオリティーの高いものを紹介していきたいですね。

 

取材:西村 望美


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日本のプロ野球選手が単身豪州へ! 不屈のピッチャー/中島彰吾 https://www.jams.tv/entertainment/129333 Mon, 10 Dec 2018 23:00:20 +0000 https://www.jams.tv/?p=129333 「NPB戦力外通告」プロ野球選手にとって最も受け入れがたい挫折をバネに、海外に活躍の幅を広げる中島彰吾選手。 東京ヤクルトスワローズを退団したのち、台湾・オランダ・オーストラリアと3カ国にも渡る経歴は、プロ野球界でも異彩 […]

投稿 日本のプロ野球選手が単身豪州へ! 不屈のピッチャー/中島彰吾JAMS.TV に最初に表示されました。

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「NPB戦力外通告」プロ野球選手にとって最も受け入れがたい挫折をバネに、海外に活躍の幅を広げる中島彰吾選手。

東京ヤクルトスワローズを退団したのち、台湾・オランダ・オーストラリアと3カ国にも渡る経歴は、プロ野球界でも異彩を放つ。一度は航路を完全に見失った野球人生を「海外」という新たなフィールドに舵を切ったのは、たった一つの出会いだった。

台湾育成チームでの選手兼コーチ経験を経て、野球人生は一変。オランダの一部リーグでは開幕投手を飾り、そして現在は大きな変革期を迎えるオーストラリアン・ベースボール・リーグ(以下ABL)で、シドニーブルーソックスのピッチャーとしてマウンドに立つ。

快活な笑顔を浮かべ「死ぬこと以外何も怖くない」と語る姿から、紆余曲折の選手生活を乗り越えてきたバイタリティを感じずにはいられない。様々な国でのプレー経験を経て、たどり着いた野球に対する向き合い方、そして日本野球機構(以下NPB)戦力外通告からABLへの躍進に至る系譜を伺った。

航路を見失った野球人生、ある出会いが「海外」という新たな世界に舵を切る

去年NPBから戦力外通告を受けました。それからトライアウトを経て、いくつかの企業チームや独立チームからオファーを頂きましたが、僕はNPB以外のチームには入らないと決めていたので全てお断りしていました。元々NPBでプレーしていたのに、レベルを落としてまで野球を続ける意味はないと思っていたんです。

NPBに戻れないのであればもう野球を辞めようと思っていたときに、台湾のトライアウトチーム「アジアンアイランダーズ」創設者の色川冬馬氏に出会いました。彼は台湾で海外選手を20人ほど集めて、台湾のプロチームと対戦しながらプロを目指す育成チームをつくっていて、僕をそのチームの選手兼コーチとして誘ってくれました。

僕としても目標を見失いかけていたところだったので、「海外」という新たな世界に飛び込めばまた何か新しい目標が見つかるんじゃないかと思い、その話を受けました。英語をプレーや実生活で使うのは初めての経験でしたが、スポーツとは不思議なもので、お互い野球をやっているとお互い何を言いたいのか何となく分かり合えるんですよね。僕も英語に自信がなくても、とにかく積極的にコミュニケーションを取ろうと意識しました。

海を越えた先に、指示待ちの「プロ」はいない

海外で野球をしてみて日本の野球と比べて感じた大きな違いは、選手が何事に関しても自ら考え、実行していることですね。

たとえば食事に関しても日本にいた時は、住んでいた寮にプロの栄養士さんがいて、自分が何にもしなくてもバランスのとれた食事が摂れていました。一方、海外だと自分に必要な食事はもちろんん、トレーニングも自分で考えます。プロテインやサプリメントに関しても自分たちで選んで買っていますね。

自己管理という意味では、日本の野球選手は「プロ」という感覚はあまりなかったかもしれません。海外の選手はやはりハングリー精神があって、一緒に生活していると僕もとても感化されます。今選手生活がすごく楽しいですね。

野球人生でたどり着いた、自分らしい生き方

僕は基本的に死ぬ以外怖いものはないし、失敗しても死ぬわけじゃないと思っているので、何でも挑戦して、失敗しても次に活かそうと思っています。部活生時代もよく「~しなさい」と指示されることが多かったのですが、それに対して僕は逆らってきた問題児でした(笑)。

たとえば必要以上にランニングさせられたりとかすると「何の意味があるのか」って疑問に思うじゃないですか? それでもみんな監督やコーチの顔色を伺って、その指示に黙って従う人が「デキるやつ」となる風潮が理解できませんでした。どの選手も同じ練習メニューをこなしたところで、ほとんどの人が突き抜けた結果を出していないのが現実です。

僕は監督やコーチに結構自分の意見をぶつけていたので、日本で僕は周りからは少し変わった奴だと思われてきました。でもその結果プロまでいくことができたし、自分の力で成功を掴んだという実感もその分感じました。どうせやるなら自分がやりたいことをやって、その上で失敗した方が納得がいくじゃないですか。

台湾での経験をステップに、オランダへ

台湾で活動していたときに、オランダ一部リーグのオースターハウト・ツインズからオファーを頂きました。僕は迷わず承諾しましたが、まさか日本を出るときは台湾からオランダに行くとは思ってもいなかったです(笑)。

人生って分かれ道の連続で、その時々に舞い降りたチャンスを得ていくのが僕にとってはベストなのかなと思いました。オランダはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で2大会連続ベスト4のイメージや、元チームメイトのバレンティンの出身国というイメージがありましたが、行ってみると実際に技術のある優秀な選手もたくさんいました。

オランダに関しても、日本との大きな違いはやはり練習スタイルです。オランダだと集合時間もバラバラで自分が好きなタイミングでアップして、自分で必要なトレーニングをして…って感じで、本当に「個」の要素が強いですね。

海外でのプレーで気づいた、野球との向き合い方

オランダでは「楽しむ野球」ができたなと思っています。日本にいたときは中学あたりから、野球は自分の中で無意識に「楽しむもの」から「勝たないといけないもの」に変わってしまっていました。

特に強いチームにいればいるほど、勝ち負けに思考が偏ってしまう気がします。選手が楽しそうにプレーする姿を見て、お客さんも楽しくなる、それが本来野球のあるべき姿だと気づきました。

もちろん海外の選手も勝ち負けにはこだわりますが、たまにおちゃらけたムードになったりするんですよ。でも日本の野球は常にシリアスでいないとならない。海外の方が自分は素を出して、チームと一緒に野球を楽しむことができてるなと感じています。「野球」と「Baseball」はやっぱり違いますね。

あと日本だとプロ一本で確立している選手が多いのですが、オランダだと副業している選手が多いんですよ。日本人だと野球に関わらず、仕事一本って人が多いと思いますが、海外の選手は仕事とスポーツのバランスの取り方がすごく上手いと思います。人として尊敬しますね。

さらなる高みを目指してオーストラリアへ

オーストラリアに来たのは、先ほど話した台湾アイランダーズの色川さんが、シドニーブルーソックスのマネージャーのトニーにつなげてくれたことがきっかけです。僕自身日本、台湾、オランダ、オーストラリアとどこにいてもあまり感覚は変わりませんが、ブルーソックスのチームはめちゃくちゃ雰囲気が良くて楽しいです。

今のブルーソックスは元メジャーリーグの選手もいたりして、僕がオランダでプレーしていたチームよりも全然レベルが高いと思います。特に僕のように海外から来た選手は自分ら積極的に練習するし、意識が高いですね。周りのモチベーションが高いと自分も引き上げられるので、切磋琢磨しあえています。

できる限り高いレベルを目指して常に野球をしたいと思っていてます。まだまだメジャー・ベースボール・リーグ(MLB)も目指していますし、そういった意味ではオーストラリアはチャンスがたくさんある場所です。自分がやれる限りトレーニングして、さらに上のオファーがもらえるように試合で結果を出していきたいですね。

人生常に真っ向勝負。後先よりも今この一瞬を大切に

野球を辞めた後のことはまだ考えていませんが、今野球と全力で向き合っていれば何かしら道は開けてくると思っています。特に海外での人との出会いって、自分の人生においてなんだか特別な気がしますね。自分が今まで知らなかった道を知れたり、一生ものの出会いがあったりとか。

もちろん目標をもって、そこに向かって努力して達成していくことも大事ですけど、僕は結構行き当たりばったりです(笑)。これは色川さんに教わったことですが、野球を通じていろんな経験を積んで、自分自身のブランドを高めていくことが大事です。様々な国で経験を積んだ人間の方が、説得力もあるし、もっといろんなことを教えられます。

だから野球ができる間は後先を考えるよりも今を大事にして、いろいろなところで野球を経験していこうと思っています。僕は今死んでも後悔しないくらい、今が最高に楽しいっすね!!

プレーだけじゃない、野球の魅力を一人でも多くの人に届けたい

オランダもそうでしたが、オーストラリアは野球が強いのに、認知度は国内でも結構低いんです。オーストラリア人がもっと野球の魅力を知ってくれれば、オーストラリアのリーグも大きくなるし、そしたら日本でNPBが叶わなかった選手も海外に目を向けてくれるようになります。

一野球人として、どの国でも野球が認知されていくのって嬉しいじゃないですか。僕自身も日本で、海外でのプレーを経験してる元NPB選手としてトークショーなどもやっていますが、海外で野球をやりたい人は結構たくさんいます。オーストラリアリーグももっと大きくなってほしいですね。

野球の試合はプレーを見るのはもちろんですが、その他にもお酒を飲んでヒットが打たれたときに「ワァァァ」ってみんなで盛り上がる球場の雰囲気なども魅力の一つです。みなさん知らないだけで、見に来てみれば野球は意外と誰でも楽しめるものなんですよ。ぜひ一度足を運んで、野球の楽しさを体感してほしいですね。

取材:千葉雛

シドニーで野球を見に行こう!

「シドニーにもプロ野球があるなんて知らなかった」「オーストラリアでも久しぶりに野球観戦をしたい」という方に。シドニー郊外に本拠地を構えるプロ野球チーム「シドニーブルーソックス」の試合を観戦してみませんか?

オーストラリア野球の魅力は選手との距離が近いこと。 シドニーブルーソックスの中島彰吾投手のほか、日本の有名なプロ野球選手もABLに派遣されており、日本人野球選手のレベルの高いプレーを間近で楽しむことができます。

野球のルールを知らないという方もご安心を。野球場にはピザやアイスクリーム、ポップコーンなどのスタジアムグルメのほか、イニング間に行われる珍ゲーム大会やマスコットとの触れ合いなど野球以外のコンテンツも充実しています。ビアガーデンも完備されているため、ビールやワインを片手に仲間とワイワイ観戦するのもOK。

12月14日(金)〜16日(日)には、埼玉西武ライオンズより派遣されている高木勇人投手と齊藤大将投手が所属のメルボルンエイシズとの試合を記念して、「JAPAN FAMILY DAYS」を開催。キッズは無料招待。16日(日)の試合後には、選手とのサイン・撮影会の他、キッズ向けの「Slip and Slide」も登場するので、友達やファミリーで球場に足を運んでみよう!

JAPAN FAMILY DAYSの日程

第1戦:12月14日(金)18:30開場 / 19:30試合開始(打ち上げ花火あり)
第2戦:12月15日(土)14:30開場 / 15:30試合開始
第3戦:12月15日(土)18:30試合開始(レディースナイト開催)
第4戦:12月16日(日)12:00開場 / 13:00試合開始

※15日はチケット1枚で2試合ご観戦いただけます。
※キッズ招待条件:大人1名様のチケットをご購入につき、最大3名までのお子さまの入場が無料になります。
※チケット購入の際には、無料招待コード「MATSURI」の入力をお忘れなく。
▶チケット購入はこちら

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シドニーブルーソックスFacebook:https://www.facebook.com/sydneybluesox.japanese
シドニーブルーソックスinstagram:https://www.instagram.com/sydneybluesox_japanese
シドニーブルーソックスウェブサイト:http://web.theabl.com.au/index.jsp?sid=t4069

 


 

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キレある蹴りを武器に五輪を目指す! 逆輸入の空手家/八尋恒存 https://www.jams.tv/entertainment/122982 Wed, 24 Oct 2018 23:00:57 +0000 https://www.jams.tv/?p=122982 9歳の時に父親に空手教室に連れてかれて以来、空手の道にのめりこみ、 16歳で初のジュニア世界選手権で銅メダルを獲得。オーストラリア国内大会では14歳の時に初出場してから、けがで欠場した2大会を除き、31歳の現在まで連勝記 […]

投稿 キレある蹴りを武器に五輪を目指す! 逆輸入の空手家/八尋恒存JAMS.TV に最初に表示されました。

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9歳の時に父親に空手教室に連れてかれて以来、空手の道にのめりこみ、 16歳で初のジュニア世界選手権で銅メダルを獲得。オーストラリア国内大会では14歳の時に初出場してから、けがで欠場した2大会を除き、31歳の現在まで連勝記録を保持している空手家・八尋恒存(やひろつねあり)選手。代名詞ともいえる鋭くキレの良い蹴り技は世界トップクラスだ。

しかし、順風満帆な選手人生にも突如としてスランプが訪れる。思うように結果を出すことができず、「引退」という言葉が頭をよぎる程の窮地に追い込まれていた選手を救ったのは、旧友との再会と空手が東京五輪の正式競技に決定したというニュースだった。

今や数々の国際大会で結果を残し続け「誰だって工夫して継続できれば何事も一番になれる」と語る。結果が全ての厳しい空手の世界に生涯を捧げるその熱量は一体どこから湧き上がるのか?

「オーストラリアと日本」「スポーツと武道」、異なる2つの要素に向き合いながら、世界を相手に戦い続ける八尋恒存選手に話を伺った。

空手との出会いは、ある日突然やってきた

八尋恒存(やひろつねあり)と申します。今年で31歳になります。父親と叔父が日本語教師養成学校を経営しているので、オーストラリアには1歳半から住んでいます。僕自身は、日本語学校は土曜学校さえも一度も行ったことがなくて、ずっとローカルの学校に通っていました。学校では英語、家の中では完全に日本語で会話するうちに二言語は自然と覚えました。

空手に出会ったのは本当に「ある日突然」でした。9歳の時、突然父親に「車に乗れ」と言われて、空手道場に連れていかれたその日からどっぷりとハマってしまいました。父が空手道場に僕をつれていったのは、叔父の知り合いが先生をやっている道場を勧められたから、という単純な理由だったそうです。

僕自身、育ちも中身もオージーだと思っているのですが、父親は日本の「ザ・昭和の親父」って感じですね。厳しかったので、当時の僕には父に対して「NO」という選択肢はそもそもありませんでした。

16歳でオーストラリアを背負う、自分の中にある”なにか”が変わる

僕にとっての空手はずっと「競技」でした。13歳の時に試合で負けてしまってから、負けず嫌い精神に火がついて、それから家でも父親と一緒にスパルタ稽古をしていました。そうしたら、気づけばナショナルチームのメンバーになっていました。

16歳の時に出場した、2003年のジュニア世界大会が大きなターニングポイントになりました。オーストラリア代表として出場したのですが、自分以外全員一回戦で敗退したんです。そこで、なんとか3位に食い込むことができて。

オーストラリアは島国というのもあって、他国との交流があまりなかったので、そのとき初めて世界のレベルの高さを目の当たりにしました。ずっと空手を「やらされている感」がありましたが、それを機に「世界レベルを目指そう」という気持ちが芽生えました。

「大浴場で監督の背中を流す?」見て驚いた日本の風習

1歳半でオーストラリアに引っ越して依頼、初めて日本に帰ったのは18歳の時です。近畿大学の練習に参加するのが目的だったのですが、そこでは日本とオーストラリアの風習の違いに大きなカルチャーショックを受けました。

チームの監督は生徒から神様のように崇められていて、お風呂では1年生が監督の背中を洗っていたんです。その他にも、練習が12時スタートだと、1年生が9時、2年生が10時と下級生が早めに集合をして準備をしたり、練習後も先輩の胴着を洗濯していたりして。

それが日本の空手ならではの風習で、日本人選手の忍耐力などの秘訣であっても、オーストラリアではできないなぁと思ったのを覚えています(笑)。日本の常識をオーストラリアにそのまま持ってくると、やっぱり噛み合わない部分があったり、逆に問題になる可能性もあるので。

挨拶をするとか、目上の人には礼をするとか、日本では文化の一部であって空手に限ったことではないじゃないですか。特別意識してやっているわけではないと思いますけど、海外で空手をやっている人が日本でそういう光景を見ると「空手だから」「武道だから」と限定的に捉えてしまいます。

オーストラリアに限らず、日本以外の国では上下関係はあまりなく、フランクですね。選手はお金をもらってプレーをして、コーチはお金をもらって指導する、そういう関係性です。日本の文化や風習も含めて空手だと思うので、そこも一緒に広まっていけばいいと思います。

日本とオーストラリアの両国を背負う

考え方の違いはプレーにも出ます。海外の選手はスポンサーからサポートを受けている金額も大きいので、思いプレッシャーを背負っています。試合に負けてしまったら契約を切られてしまう厳しい世界であり、「武道」ではなく「スポーツ」なので、勝ちに貪欲です。

逆に、日本人選手は試合の内容にこだわります。いかに普段の練習の成果が本番に発揮できているかとか、いかに反則なく正々堂々と勝てるかとかですね。さすが発祥国といった感じで、日本人選手の試合運びや精神性には美学があります。

日本の文化って本当に素晴らしいじゃないですか。だから日本人の方はもっと誇りに思っていいと思います。僕自身どこの国に行っても「日本人はモラルがあって素晴らしいね」と褒められます。それは自分たちの前の時代の人たちが海外を周って、日本の素晴らしさを伝えてくれていたからこそだと思うので、その誇りは失いたくないですね。

僕はオーストラリア代表として、オーストラリアを背負っている立場ですが、日本人としての誇りを持っているので、正々堂々と試合をした上で勝利できるようにしています。世界各国の大会に出場し、日本人選手と試合をしたり観戦をする中で、いつも日本は素晴らしい国だなと再認識させてもらっています。

人生最大のスランプを救ったのは、空手が五輪競技になったニュースだった

2016年に大きなスランプに陥りました。どの大会に出場しても一回戦敗退ということが続き、引退することも考えていました。辛い時期でしたが、その時に救ってくれたのが元フランス代表で世界チャンピオンになった経験があるアズディン(Azdin Rghioi)とのオーストラリアでの再会です。

彼は既に引退をして、オーストラリアでコーチをしているということだったので、そこから一緒に練習をするようになりました。年齢も同じで、ジュニア時代には世界大会でよく顔を合わせていた2人。そんなアズディンから「一緒に東京オリンピックを目指そう」と声をかけてくれたことはすごく大きかったですね。

アズディンと稽古を始めてからは、フランス流の練習システムに変え、基本的なところから改善を始めました。ウェイトトレーニングや走り込みの時間を増やし、試合や練習を撮影した動画で振り返り、技の精度を確認するようにもなりました。ただ漠然と練習を重ねるのではなく科学的に進めることで、短くて内容の濃い練習ができるようになりました。

この時に気づいたことなのですが、自分の何かを変えたければ、アプローチから大きく変えていかなくてはならないということ。「もっと練習しないと勝てない」という感情は、精神的に空回りしてしまい、それが怪我にもつながります。オンとオフの切り替えも大事だし、追い込むことが常に正解とは限らない。スランプを通して大切なことを学びました。

拳で打ち砕く国境・人種・文化の壁

練習方法の改善をはじめた最初の半年は、なかなか変化が起きずに辛い時期となりました。これまでのコーチからは「ああ、ダメだな」という心の中の声がこちらにも伝わってきたのですが、アズディンはどんなときも僕を信じてくれます。

彼が信頼してくれるからこそ、僕も自分自身を信じて、妥協しない決意ができました。空手は「先生と生徒」でタテの繋がりが一般的ですが、僕とアズディンは「アスリートとコーチ」といったヨコの繋がり。元ライバルということで、コーチになった今もお互いに切磋琢磨をしながら練習に励んでいます。

空手の魅力は世界中に仲間が増えることです。「空手をやっている」という一つの共通点が、国境・人種・文化の壁を超えます。拳を交えて戦えば、不思議と仲良くなれるのです。今自分の周りにはサポートしてくれる仲間や一緒に練習している仲間がたくさんいます。ライバルであり、親友である仲間がいることは生涯の財産です。

畳の上にも5年。伝えていきたいのは継続することの大切さ

最近は道場で子供たちに空手を教えています。そこで大事にしているのは「継続すること」の大切さを教えてくこと。親御さんには最低でも5年は続けるようにお話ししています。短い期間では結果はやっぱり出ないですし、本当に競技の道を目指す子には、目先の結果よりも長い目で見て練習してほしいと伝えています。

「やらされる」よりも自分から「やりたい」と思えるような環境も大事です。空手だけではなくて、勉強や仕事など、どんな道に進んでも必要になるので、それを空手を通して教えていければと思っています。

競技としての空手の世界は甘くありません。稽古では痛い思いもするし、試合はトーナメント制なので、優勝者以外の子どもは全員負けて帰ってきます。その時に、どう接するのかは一番難しいところですね。僕は「負けたのは稽古が足りなかったから。また明日から頑張ろう」と教えています。

空手で叶える自分の夢

鳥居や家紋のイメージと、オーストラリアカラーであるイエローを使ったTeam T-Dogのロゴ

今30歳で、次のオリンピック(東京五輪)が終わったら、選手として活動することからは引退しようと考えています。そのあとのビジョンは明確に決めているわけではありませんが、海を渡って他国のナショナルチームを指導してみたいと漠然と考えています。

自分の同年代の空手仲間も引退した後、少しずつ海外に出てコーチを始める人が増えてきて、それがすごく楽しそうで。自分が今まで得てきたものを教えて、今度はコーチとして一番を目指すってすごくやりがいがあることだと思います。

コーチ経験を積んだ後はボクシングや空手など、競技の枠を超えた格闘技のジムを友人と経営していきたいと話しています。競技の垣根を超えて格闘技を楽しむ環境をつくりつつ、才能のある選手がプロとして活動していくための道を作りたいなと。

そのために「Team T-Dog」というチームをつくりました。モットーは「アスリートサポートネットワーク」で、総合格闘技など分野問わずにお互い刺激しながら高めていく集団を目指しています。将来的にはプロモーションなどを通じて組織をもっと大きくして、格闘技に励む若者の支えになるバックボーンになれたら理想です。

プレッシャーを跳ね返す喜びが恐怖に勝る

最近、出場する大会では手応えを感じています。東京オリンピックの選考対象である「International Basel Open Masters 2018」が9月のヨーロッパ遠征期間中にありました。

世界チャンピオンを4回経験しているアガイエフ(Rafael Aghayev)選手と対戦をして、判定負けはしたもの同点まで持ち込み3位に入賞。そこから世界チャンピオンとも競り合えるという自信がつき、自分がやってきたことは間違っていなかったという確信がもてました。

ヨーロッパは練習のレベルや選手たちの意識がとても高いです。彼らの周りにはライバルがたくさんいて、常に自分が見られている感覚をもっています。「ここで勝たないとダメ」みたいな状況に置かれるとやっぱり燃えるものがありますね。プレッシャーに押しつぶされる恐怖よりも、それを力に変えて跳ね返したときの喜びの方が大きいです。

今年度はあと東京、スペイン、上海で国際試合があります。スランプ期間は結果が出なかった分、どんどん世界大会で結果を出してリベンジしていきたいですね。

特別な思いを持って臨む東京五輪への思い

インタビュー担当の編集スタッフ千葉と。ユーモアやサービス精神に溢れているのも八尋選手の魅力。

今の一番の目標はやはりオリンピックです。全体で80人の選手が出場権を得られる中、オセアニア地域から出場できる男子選手枠はたった1人。その出場枠を勝ち取るには、国際大会に挑戦して世界ランクを上げていかないといけません。

少し前までは引退まで考えていたにも関わらず、このタイミングで空手が五輪競技になり、しかもそれが東京開催。なにか運命のようなものを感じますし、出場権を獲得してメダルを持ち帰りたいですね。

また、空手の魅力が発信され、それがオーストラリア国内の盛り上がりにつながればいいなと思います。

取材:德田 直大
文:千葉 雛


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蔵元と侍の絆が醸す!オーストラリアのSakeと未来/落合雪乃 https://www.jams.tv/business/118598 Fri, 28 Sep 2018 00:00:03 +0000 https://www.jams.tv/?p=118598 オーストラリアを代表する百貨店「デビッド・ジョーンズ」や大手ボトルショップ「ダン・マーフィー」。リカー&スピリッツのコーナーに行くと、ごく普通に日本酒が陳列されている棚を目にすることができる。しかし、西洋文化が息 […]

投稿 蔵元と侍の絆が醸す!オーストラリアのSakeと未来/落合雪乃JAMS.TV に最初に表示されました。

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オーストラリアを代表する百貨店「デビッド・ジョーンズ」や大手ボトルショップ「ダン・マーフィー」。リカー&スピリッツのコーナーに行くと、ごく普通に日本酒が陳列されている棚を目にすることができる。しかし、西洋文化が息づき、ワインやビールの消費量が多いオーストラリアで日本酒の販路を獲得するまでには想像を超えた試練の連続だった。

今回、お話を伺ったのは日本酒をオーストラリアに輸入するデジャヴ酒カンパニーの落合雪乃(おちあいゆきの)さん。昨年、日本酒や日本の食文化が世界に誇れる文化であることを、世界に発信するための「酒サムライ」に就任した。

その他にも日本の利き酒師や、世界中からワインのプロフェッショナルが通う教育機関WSETの公式日本酒エデュケーターの資格を持つ実力者であり、オーストラリアにおける日本酒普及の中心人物として、現地のソムリエやバーテンダー向けのセミナーを定期的に実施している。

そんな彼女に、これまでの歩みと豪州マーケットの可能性、そして日本酒や酒蔵につまったロマンについて話を伺ってみた。

オーストラリアに来たことで、いろんなことが逆転

出身は愛知県です。大学を卒業してから高校で国語教師として2年間勤務し、その後に両親と一緒にオーストラリアにやってきました。当時の日本はバブルで、定年退職後を海外の保養地で暮らしたいと考える人が多かったんですね。

通商産業省のサービス産業室が提唱した、リタイア層の豊かな第二の人生を海外で過ごすための海外居住支援事業「シルバーコロンビア計画」というプログラムがあり、それが移住のきっかけになりました。

シドニーのブルースカイとハーバーブリッジに感動している両親を横目に、当時の私はオーストラリアに全然行きたくなくって。だって、高校の教員になったばかりですし、ようやく自分の稼ぎができて、自由に遊べるようになった訳じゃないですか。こーんな楽しい時期に、なーんで日本を離れなきゃいけないのって(笑)。

でも、結果的に連れてきてもらってよかったと思います。田舎で生まれ育ったので、もし日本にいたら決められたレールの上を走る人生を送っていたかもしれません。

もし日本に残っていれば、2〜3年働いて、お嫁にいって、お茶やお花をやって……、みたいなごく普通の生活を送ることになったと思います。オーストラリアに来たことで、いろんなことが逆転し、すごくサバイバルな人生を送ることになってしまいました(笑)。

アルコール業界への入り口はワインだった

オーストラリアにいざ来てみたものの、英語力の低さを痛感しました。知り合いからの紹介で、ウェストパックや全日空でお仕事をさせてもらいながら、移民のためのプログラムである英語クラスを受講していた時期もありました。

しかし、たった2年間の教員経験しかしていない私は、もっと人生経験を積んだり、根本的な英語力を向上させないとまずいと思い、退職をしてマッコーリ大学へ進学することにします。

ちょうどその頃に、父がキャセグレイン・ワイナリーという、ポートマッコーリーにあるワイナリーとワインの輸出業に携わるようになって。私も学費や生活費を稼ぐためにキャセグレイン・ワインズでアルバイトをするようになりました。これが、アルコール業界に入るきっかけです。

実はこのキャセグレイン・ワインズ、主要取引先の一つにJR東海があります。新幹線に乗っているとトローリーで飲食物の販売があると思いますが、そこで販売されているのがキャセグレイン・ワインズのワインなんですね。父がJR東海との取引を始めて、私がその後に引き継いで、ここまで認知を広げることができました。

大学を卒業してからも、キャセグレイン・ワインズで3年ほど勤務しました。そのあとはローズマウント・エステートからヘッドハンティングをされ、そこから会社が大手のサウスコープ・ワインズと合併することになり、私も異動することになります。

そんな仕事が軌道に乗り始めた矢先に、最初の癌が発覚します。会社から日本法人の代表として働いてくれとオファーをもらっていたのですが、健康状態や子供たちのことを考えて辞退しました。それから癌の再発もあり、治療に専念することになりました。

急がば回れでコミュニケーションの大切さを知る

3年間の闘病生活を終え、ワイン業界に戻ろうと思った時に、なにかこう昔のように「やりたい!」と思える仕事の求人がなかったので、思い切って違う業種にチャレンジすることにします。これまで教職や知り合いの紹介などで仕事を見つけてきた私にとっては、人生で初めての就職活動です。YouTubeで面接の受け方を勉強していたら、子供たちに笑われました(笑)。

採用をいただけたのは、オーストラリアのファッションブランド「ヘレン・カミンスキー」。この会社では、人によってコミュニケーションの方法を変えなければいけないことを学びました。男性と女性では仕事の進め方が違うんですね。ワイン業界にいた時は、男性とずっと仕事をしていたので、男性っぽい仕事をしていたと思います。ですが、ファッション業界には女性が多いので、女性とのコミュニケーション方法を学ぶ必要がありました。

例えば、販促費が欲しい時に、男性社会のワイン業界にいる時は、上司とコーヒーを飲んでる時でも、エレベーターに乗っている時でも、「販促費をください」と要点を伝えるだけで大丈夫でした。しかし、相手が女性の場合は「どう思いますか」とか気持ちを大事にしてあげることが大切です。

ダイレクトに伝えるのではなく、「それは良いアイディアだわ」とか「そうよね」という言葉を引き出し、その人のアイディアにしてあげるように会話を自分で作り上げないといけないって。それが今でもすごく役立っています。

ロマンチックな感情を日本酒に抱いたのは……

ヘレン・カミンスキーで働いている時、年に数回、日本へ出張する機会がありました。その時に夫であり、デジャブ・ワインカンパニーの代表で、ワインの輸入や卸をしているアンドリューも同行することがありました。彼が日本で日本酒を飲んだ時に、そのおいしさに驚いていて。だから、日本酒にロマンチックな感情を持っていたのは、私ではなくずっとアンドリューなんですよ。

日本人の私にとって日本酒を飲むのは当たり前の感覚。しかし、彼にとっての日本酒は宝物なんです。「こんなに素敵なものなのに、神秘のベールに包まれているなんて……。まだ誰も知らない日本の宝物をオーストラリアに紹介したい」って。「そうだね〜」と言いながら、最初は見ていただけなのですが、いざやるとなったら私の仕事になって(笑)。

そこから2人で日本の酒蔵を周りながら、蔵元さんと徐々に信頼関係を築いていきました。他のインポーターとは違って、日本酒に特化しながらもワインと同じように販売したかったので、お味噌やお醤油は取り扱わないし、マーケティングや販促費もすごくかかる……、「それでもいいですか」って聞いて、私たちの可能性を認めてくださった5つの酒造さんと、2012年7月にスタートさせたのが『デジャヴ酒カンパニー』です。

「横浜の風を運んでいたんです(笑)」

今や、オーストラリアでも日本酒は新しいビバレッジの一つとして認知されていますが、当時は全く違う状況でした。とにかく「輸入すれば売れるのではないか」という、根拠のない自信がありましたが、実際には定着させるまでには想像以上の時間も手間もかかりました。

日本酒は熱に弱いので日本から日本酒を輸入すると時は、リーファーコンテナという温度指定のできるコンテナを使います。しかし、混載リーファーコンテナが日本からの輸送分では存在していないので、他社の商品と混載することができないので、貸し切りにしなければいけないんです。

大量に輸入する方が効率的ですが、品質管理の点からと新鮮なお酒を提供するには少量を何回かにわけて輸入することを選びました。最大で800ダース入るんですけど、そんなに売れるわけないので200ダースだけ発注して。あとは横浜の風を運んでいたんです(笑)。

ローカルに根付くまでは、日本食レストランに卸せばいいやと思っていたのですが、いざ営業に行ってみると「味噌や醤油がないんだったら大丈夫です」と断られてしまって。そこから日本食レストランに頼らない、日本酒ビジネスに本格的に方向転換していきます。

当てが外れたものですから、のんびりしているわけにもいかず。オーストラリア人のソムリエやバーテンダー、レストラン経営者向けに日本酒のトレーニングを始めたり、WSET(Wine & Spirit Education Trust)*の日本酒コースが始まったと知った時には、ロンドンに飛んでエデュケーターになるための勉強もしました。

*Wine & Spirit Education Trust(WSET)
ワイン&スピリッツ・エデュケーション・トラスト(Wine & Spirit Education Trust, WSET)は、ワイン、スピリッツ、および日本酒の資格を認定する世界最大の教育機関。世界の酒類業界で高い定評のある関連団体からの信頼を得て、50年にわたりアルコール飲料の教育の開発と提供に携わる。

オーストラリア人にはワイン語で日本酒を解説

ワインを試飲する時にはさまざまな手順がありますよね。まずは色を見て、香りを楽しむ。口に含んだ時には、ボディやフレーバー、フィニッシュをみて。さらに細かくいえば、真ん中に味がくるのか、横にいくのか、後でくるのかとか……。そういった手順でソムリエの人たちはワインをテイスティングしているので、その人たちに「このお酒はまろやかです」と伝えても、いまいち理解できないんですね。

日本の消費者には、日本酒については阿吽の呼吸で通じるものがあるけれども、オーストラリアの人に日本酒を説明するときには、ワインと同じプロセスで説明する必要があります。例えば、これはフルーティーな香りですと説明をしても、バナナ系とシトラス系の香りは違うし、なんでシトラスかという理由の説明や口に含めたときのテクスチャの違い、ライトボディだ、ミディアムボディだ、フルボディだと、必ず言わないといけない。

スウィートなのかドライなのかも大切。ワインはスウィートとドライがわかりやすいけれども、日本酒は基本的には甘い飲み物だから、ものすごく幅が狭いんです。じゃあ、どこをドライっていうか、何がドライなのか。まず、日本酒のドライとワインのドライは違うんです。

ドライはタンニンと酸度のバランスなので、ワインはタンニンが高くなるとドライになってきます。日本酒の場合はそうではなくて、ワインにはないキレがあります。なんでそれが違うのか、なんでこのお酒はキレていいのかとか。短いからよくないんじゃなくて、短いのもあるんだっていう説明をしていかないといけません。

フードペアリングの話も面白いですね。ワインは白が魚、赤がお肉とよくいわれるじゃないですか。私は日本酒は辛いもの以外なら、なんでも合うと言っていて、例えばチーズとの相性もすごく良いんですね。だから、日本酒とピザもOKなんです。そういった話しをすると、ソムリエのお兄ちゃんたちはノッてきます(笑)。

世界の日本酒事情とオーストラリアの熱燗

最前線を走っているのはニューヨークでしょうね。歴史的にもアメリカは日本酒が輸入されたのも早かったですし、最大の輸出国でもあるほかお酒の現地生産の歴史もあります。その次に洒落たマーケットはロンドンかな。

オーストラリアは歴史も浅く、日本酒を好んで飲む人の人口もまだまだ少ないはずなのに、日本酒が家飲みのカテゴリーに入ったのは、比較的早かったと思います。ギフト需要も高く、日本食以外でのレストランのワインリストに入ってきたりとか。そういった意味で、オーストラリア市場の潜在能力は高いと思います。

オーストラリア人って新しいものが大好きじゃないですか。最近はニセコや白馬などに旅行をして、スキーを楽しむ人が増えています。宿に帰った後には温泉に入って、日本食を熱燗と一緒に楽しむということが定着しているので、オーストラリアでも熱燗を好んで飲む人がすごく多くて。

でも、すごく希少価値の高い大吟醸お燗してくれとか(笑)。それにはびっくりしちゃうんですけど、でも温めてあげればいいと思っています。以前はそういうことしちゃいけないと思ったけど、今はこれまで無かったカテゴリーを確立させようとしている時期なので、まずは思い思いに楽しんでもらうことが大切なんだって。

なんでもいいのとは言っちゃいけないんだけど、そこに日本酒への想いや愛があれば大丈夫。いずれは、オーストラリア人がボトルショップで日本酒を買って、自宅で映画を見ながらピザで日本酒を楽しむというのが習慣になれば嬉しいですね。

蔵元との絆が醸す、デジャヴのブランディング

日本の蔵元さんとのコミュニケーションはすごく大切にしています。蔵元さんにも、会社を立ち上げた当初からよくしていただいて。小さなマーケットの中で仲違いするのは嫌なので、今でも1週間に何回もメールをしてコミュニケーションを取っています。

以前、デビッド・ジョーンズで日本酒の取り扱いが決まったことを報告した時には、その商品を取り扱ってもらっていない蔵元さんも自分のことのように喜んでくれました。それだけオーストラリア市場に注目してくださっているということですね。

新しい蔵元さんに入ってもらう時に、私が一番大切にしているのは、その蔵の魅力を全部引き出すこと。私たちのような輸入・販売会社は、自分の商品を持っているわけではないので、蔵の魅力を伝えるのが使命だと思っています。商品を預かっているので、販売するだけでなく、一緒にブランドを構築していくことも大事。

これは伝統産業を取り扱う、私たちの責任でもあります。「出羽桜」という言葉をオーストラリア人が知って、出羽桜が飲みたいってならないといけない。その時には、出羽桜の大吟醸だけではなく、普通酒から純米大吟醸までを揃えていないといけない。

小さいものから大きいもの、安いものから高いものまで。大吟醸だけ取り扱えば良いわけではなく、普通酒や純米のおいしさまで伝えれないと。全て含めて蔵元の実力だと思うので。商品を選ぶ時にも、商品の構成を変える時にも、蔵元と時間をかけて相談しながら決めています。

だから私たちは1蔵1商品ではなく、最低でも1蔵4商品にしています。どんどん数が増えて大変なんですけどね……(笑)。

オーストラリアのSakeと未来

「International Wine Challenge」というロンドンを本拠地とする世界的なワインコンペティション内に、2007年より日本酒のカテゴリーが設立されました。今では日本国外で最大の日本酒品評会に成長し、日本の醸造組合が本腰をいれて日本酒を世界に広めていくプロセスにおいて、とても大きな転機になりました。2016年からは日本酒の海外進出を後押しすべく、私も審査員として参加しています。

また昨年9月には、若手蔵元で組織する日本酒造青年協議会が、日本酒や日本の食文化が世界に誇れる文化であることを、広く世界に発信するために発足した、酒サムライに叙任していただくことができました。メンバーになるためには知識や経験、技能だけでなく、これまでの功績などを総合的に判断して認定をしていただける称号ですので、日本酒業界の人たちに認めてもらえたという達成感がありました。

これまでは、業界の裏方として活動してきましたが、これからは酒サムライとして、もっとパブリックに日本酒の素晴らしさを、ここオーストラリアで広めていく活動ができればと思います。

取材:德田 直大 文:​​村田 悠夏

シドニーで日本酒を楽しめるイベント『酒祭り』

昨年設立された団体「Nihonshu Australia」が主催する日本酒イベント『酒祭り』が10月20日(土)に開催される。今回は60を超える日本酒を用意。大吟醸から生酒や純米、古酒まで、幅広いラインナップを楽しむことが可能。日本酒ファンはぜひ参加しよう!

日時:10月20日(土)13:00 – 18:00
料金:$60(アーリーバード $50 売り切れ)
場所:THE COMMUNE, 901 Bourke St, Waterloo
http://sakematsuri.com.au/portfolio/sydney-2018

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英文インタビューはこちら
The future of Sake in Australia – interview with Yukino Ochiai

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“We”のチカラでアチーヴするパーソナルトレーナー/野村麻衣 https://www.jams.tv/entertainment/116652 Thu, 16 Aug 2018 07:04:06 +0000 https://www.jams.tv/?p=116652 所属するオーストラリアの大手フィットネスクラブ「Jetts」で、2016年・2017年とNSW州ベストパーソナルトレーナー賞を連続受賞(1年目はアジア人で初の快挙)し、フィットネス大国オーストラリアでも実力が認められてい […]

投稿 “We”のチカラでアチーヴするパーソナルトレーナー/野村麻衣JAMS.TV に最初に表示されました。

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所属するオーストラリアの大手フィットネスクラブ「Jetts」で、2016年・2017年とNSW州ベストパーソナルトレーナー賞を連続受賞(1年目はアジア人で初の快挙)し、フィットネス大国オーストラリアでも実力が認められている野村麻衣さん。

ただトレーニングを提供するだけでなく、「この子変わった!」と実感するまで自信をつけさせる麻衣さんのやり方に、オーストラリア国内のみならず海外からも、毎日SNSを通じてメッセージが届くという。

学生時代からやりたいと思ったことには迷わず挑戦しながらも、一つ一つへの取り組み方はストイック。日本からオーストラリアに舞台を移した現在でも、そのスタイルは変わらない。満ちあふれる彼女のエネルギーの原点と今後のビジョンを伺った。

スポーツ少女はナチュラルボーンなアチーヴァー

両親ともにスポーツが好きだった影響か、3歳から運動をはじめ、ずっとスポーツに関わる環境で育ってきました。小学生の時は、バスケットボールに水泳、テニス、スカッシュと習い事やクラブ活動をいくつも掛け持ちしてて。

親に強制されたことは一度もありません。やりたいことを見つけたら、練習時間や場所などを自分で調べて、「来週から、コレコレのレッスンに通うから!」と親に一方的に告げるような感じでした。その時から私はアチーヴァーだったのかもしれないです。まぁ、月謝を払っていたのは親なんですけどね(笑)。

中学時代もバスケットボール部と陸上部に所属し、どちらの部活でも活動していたのですが、当時の先生に体育専門の高校があると勧められ、そこからはスポーツ一本になりましたね。

高校はオリンピック選手の育成を目標に掲げているような、当時としてはかなり珍しい学校でした。体育の種目だけでも10項目くらいあり、最新設備や先進的な理論に基づいた実践を通して、身体運動やトレーニングを勉強できる環境が整っていました。

逆に一般教科は最低限の授業数で、国語・数学・社会以外は選択制だったので、高校時代に英語の勉強はしませんでした。その時は、まさか自分が海外で生活するなんて、思いもしなかったので(笑)。

カラダが疼く、勉強をする、パーソナルトレーナーになる

高校卒業後は当時流行っていたショップで洋服の販売員もしました(笑)。同時期に、都立高校でダンス部の顧問もしていて。やっぱり体を動かすのが好きだし、人の助けになることもしたくて、それらを両立できるのは何かと考えた時に、ジムのインストラクターになろうと。

最初に働いたのはちょっと特殊なジムで、同時期に入社した人は全員体育大学卒の、専門的にトレーニングを勉強してきた人たちばかりでした。最初の半年はジムがあるビル内の別フロアで徹底的に座学を講習を受けてから、筆記試験と実技試験に合格すれば晴れてユニフォームが着られるようになるんです。

でも、体育大学卒の人たちの中に混ざって講習を受けているので、そもそもの知識量がまったく違いました。授業についていくのが大変で、この時は生涯で一番勉強したと思います。キャリーケースがパンパンになるくらいにテキストやノートを入れて、毎日必死の思いで通っていました(笑)。

“カラダを動かすこと”が共通言語へ

日本のジムでは4〜5年ほど働きました。組織的に従業員をサポートしてくれる企業だったので、あのリードがあったから今の私のベースがあると思うのですが、とにかくスケジュールがタイトでした。

この時間にはスタジオAでダンスのクラス、次は移動してパーソナルトレーニング、そしてすぐにシャワーを浴びて、そこから……みたいな感じで、1日のスケジュールが5分単位で管理されていて。やりがいはあったし、当時はストレスに感じていなかったのですが、無理もしていたのかもしれません。

次のステップに進むことを考えた時、海の近くに住みたいという夢を持っていたので、ワーキングホリデーでゴールドコーストに渡りました。最初の4カ月は語学学校に通い、そこからローカルのフィッシュ&チップスのお店で働いて。

でも中学以来、英語を一切勉強してこなかったので、なかなか英語が上達しなくて。そんな中、ホームステイ先のホストマザーがジムインストラクターだったこともあり、英語がうまく話せないなら、運動を通してコミュニケーションを取ろう!と、彼女のジムセッションもアウトドアのブートキャンプも、とにかく全部参加するようになりました。そしたらまた「あ……、やっぱりやりたいかも」って気持ちが芽生え始めました。

ワーホリ後は帰国してから、オーストラリアでジムインストラクター資格を取得する道を探しました。最終的に、いろいろな事情が重なり、シドニーの専門学校へ進学することに。そこでも、英語と専門知識の勉強の日々を送ることになりましたが、日本でインストラクターの経験がある私がクラスメイトをサポートし、逆にクラスメイトは英語面で私を支えてくれました。

突出した個よりも組織が大事! 周囲を巻き込みNSW州の頂点に

所属しているフィットネスジムの「Jetts」には、かなりスムーズに入社しました。もともと会員として通っていたのですが、アジア人の女の子でガツガツとトレーニングしてる人は珍しかったようで、私のことを普通じゃないと思った当時のマネージャーが「あなたプロなの?」って話しかけてくれて。そこからトントン拍子で話が進み、面接すらしないままに就職が決まりました。

そこから数年働いて、2016年には「Jetts」のNSW州ベストパーソナルトレーナー賞を受賞しました。認定員が数十個あるチェック項目から所属トレーナーを評価しているらしいのですが、私はそんなアワードがあることすら知らなくて。「トップ3に選ばれたよ」「ゴールドコーストに行くよ」と電話で告げられ、そして表彰式ではまさかのグランプリ(笑)。

ベストパーソナルトレーナー賞をいただいたことで、自分の中に変化が生まれました。というのも、No.1パーソナルトレーナーがいるクラブがNo.1じゃなかったらおかしいと考えるようになったからです。この賞はクラブのメンバーやクライアントさんとのチームワークで獲れたと感じているし、その人たちに恩返しをしたいのもあって、クラブを一番にしようと思うようになりました。

そのために自分の空き時間を使って、他のトレーナーの教育にも積極的に携わるようになりました。個人として、周りからは2年連続の受賞はないだろうと言われていましたが、最終的にはクラブとしての1位、個人としての2年連続1位というダブル受賞を達成することができました。すごくうれしかったですね。

「ご飯を食べる」「歯を磨く」「ジムに行く」

オーストラリアでは、ジムに通うことやパーソナルトレーナーに指導してもらうことが広く浸透しています。ビジネスマンでも、仕事の休み時間や出勤前に通うことがごく普通ですし、ジムの数も多いですよね。

驚いたのは、「ジムに入会したい!」と来てくれたお客さんが、シドニーに着いたばかりで、まだ携帯の通信がつながっていなければ滞在先もバックパッカーズという状態で。「すいません。まずは家を決めて、銀行口座を作ってからの方がいいのでは?」とアドバイスをしました(笑)。

日本でもトレーニングの熱は上がっていると思うのですが、ジムに通っていると言うと「何を目指してるの?」と聞かれる場合もあると思います。ご飯を食べる、歯を磨く、ジムに行く、そんな風にライフスタイルの一環として、日本でも自然に取り入れいってほしいなと思います。

「Hi, Mai!」のハイファイブで感じた手応え

私のモットーは、100人のクライアントに100通りのトレーニング方法を提案することです。トレーニングのアプローチは人によって変えていかないといけなくて、ガンガン追い込みながらやりたい人もいれば、そっと背中を押すのが必要な人もいます。

運動方法も人によってかなりフレキシブルになるようにしています。私自身が柔軟に動けないと、私と合う人しか、トレーニングできなくなってしまうので。でも、トレーニングのアプローチは変えても、野村麻衣としての軸は変えないようにしてます。「人それぞれでまったく違うプログラムを組んでいるし、教え方も違うけど、私は私だから」と、みんなに言っていますね。

この仕事をしていて一番うれしいなと感じるのは、その人のライフチェンジがわかるところ。「痩せた」という結果だけじゃなくて、初めてジムに来たときには長袖・長ズボンで自信なさげに入って来た子が、短いショーツ履いて「Hi, Mai!!!」でハイファイブしてくれるようになった時とか。

自信を持ってジムに来られる習慣を付けるのは簡単じゃないんですよ。私から発信する一方通行のコミュニケーションでは限界があるので、話すときも「You」とか「I」は使わずに、「We」や「Us」と言うように心がけています。「私たちのチームでひとつのゴールを目指すんだよ」って。

人生のギアチェンジ! あらゆる速度域でパワーを発揮

2016年7月に『Style gear』という会社を立ち上げました。「体のスタイル」に加えて、「あなたのスタイル」にあったものを提供し、「人生のギア」をいい方向チェンジするという意味を込めています。

ジム内でできることには制限があるので、オンラインでセッションを提供したり、ブルーマウンテンズでアウトドアアドベンチャーや軍隊式のハードなトレーニングを組んだりと、より幅広く活動ができるようになりました。

オーストラリア人はアジア人に比べ、お金を経験にかけるんですよね。また、私の持ち味はトレーナーとしての指導技術だけでなく、メンタルコーチやライフスタイルコーチとしての部分も強いので、そういったニーズにも応えられる環境ができつつあります。

よく知り合いの方からは、「ベストパーソナルトレーナー賞を受賞した経歴を活かして、野村麻衣メソッドを作ればいいのに」と言っていただけるのですが……。100人のクライアントに100通りのトレーニング方法を提案することが私のスタイルなので、それをメソッドという形にまとめることは不可能ですよね(笑)。

これまでの経験や知識を使って、最適なトレーニング方法やライフスタイルを提案しますが、それを強制をするつもりはないんです。むしろ自分のやり方が常に正解だとも思っていません。気に入ったことだけを取り入れてもらって、そこから自分の色に染めて、オリジナルな方法に変えていく。そのお手伝いができればと思っています。

タイムマネージメントからライフマネージメントへ

今、どれだけ24時間を有効に使うかというタイムマネージメントを勉強しています。より生産的で、今日よりも明日をよくできる方法を模索していて。でも、毎日何かを達成する必要はなくて、目標に向かって努力をしていれば、目に見えた結果がでなくても大丈夫なんです。

昔はいつも「100でやる(100パーセントを出し切る)」というのが心にあって、オンもオフも常にフル回転で働いていたんですよ。今でも、仕事は100で取り組むし、連続で5セッションを持つとクタクタになりますが、それでもオフの時間は必ず取るようにしました。

そうして作った時間をスペアタイムとかフリータイムにするのではなく、インベストタイム(自己投資の時間)として使うようにしていて。それを意識しはじめてから毎日のサイクルが良くなりました。仕事量は前よりも増えているはずなのに、私のキャパシティーにはまだ余裕があって、24時間をうまく使えるようになったと思います。

だから、本気で何かやろうと思ったらできるんだなと改めて実感しました。やらないで後悔するよりもやって失敗した方が、その時間も勉強になるし、無駄になる時間はないと思います。それが結果につながらなかったら、タイミングが違ったと思うようにしたらいいだけ。自分の人生は「わたし」が選ぶ。これからも目標を達成するアチーヴァーとして、さまざまなことに挑戦していきたいですね。

野村麻衣(のむらまい)プロフィール

オーストラリアの大手フィットネスチェーン店「Jetts」でパーソナルトレーナーとして勤務する傍ら、フィットネスに関わるサービスを提供する会社『Style gear』を運営。20歳から日本でパーソナルトレーナーとしての経験を積む。渡豪後はトレーナーとして活動するため、専門学校を経て「Jetts」に入社。2016年にアジア人初となるJetts・NSW州ベストパーソナルトレーナー賞を受賞。続く2017年には、同アワードの連続受賞に加え、所属店舗をNSW州ベストクラブへと導く。

取材:德田 直大
文:家田阿実

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