2024年日本人会ゴルフ部10月度例会を開催しました
2024年日本人会ゴルフ部10月度例会リポート 開催日:2024年10月20日(日) 開催場所:Mona Vale Golf Club 参加人数:11…
「人生を振り返ると、サッカーばかりだった」
7歳から兄2人の影響でサッカーをはじめ、サッカー漬けの学生生活を経て、Jリーガー、日本代表と着実に夢を叶えていった田代有三さん。
30歳を過ぎたころ、「サッカーをしながら何かを得たい」と考え始め、新たなチャレンジとして海外に渡ることを決意。アメリカのMLS(メジャーリーグ・サッカー)のセレクションに参加するなど、紆余曲折を経てたどり着いた、次の挑戦の地・オーストラリア。
オーストラリアのクラブチーム「Wollongong Wolves(ウーロンゴン・ウルブス)」では、語学の壁に苦戦しながら、中心選手として活躍し、チームメイトやサポーターから信頼を勝ち取った。
選手を引退後は、ウーロンゴン・ウルブスのアシスタントコーチに就任し、チームに「恩返し」。現在はシドニーで子ども向けのサッカークリニックを開校し、今後はオーストラリアの地からサッカー以外のことにもチャレンジの場を広げる予定だ。
今の環境から一歩踏み出すことで視野が広がり、自らが成長できたと語った田代さんの「これまで」の経緯と、「今後」への想いに迫る。
兄2人がサッカーをしていて、僕もやりたいなと思ったのがサッカーを始めたきっかけです。小学校高学年の時にJリーグが始まって「プロサッカー選手(Jリーガー)」という存在に憧れを抱き始めました。
憧れから「プロになりたい」という意識に変わったのは高校生から。県内で選抜チームを組み、県対抗で試合をする国体に、福岡県選抜で選ばれました。選抜メンバーは福岡の強豪、東福岡高校の選手ばかりでしたが、強豪校の選手に負けないように努力しました。その結果、国体の試合で活躍できるようになり、そこで初めて「プロになれる」と確信しましたね。
サッカーの特別推薦枠で福岡大学に進学し、大学3年生のときにサッカー部の先生から「特別指定選手」制度の話を聞きました。「特別指定選手」は、正式には「JFA・Jリーグ特別指定選手制度」のことで、全日本大学サッカー連盟や全国高等学校体育連盟、第2種日本クラブユースサッカー連盟に加盟しているチームの登録選手が、チームの枠を超えてJリーグの高いレベルの中でプレーする機会が与えられる制度です。
いくつかのJリーグのチームから声をかけてもらいましたが、J1のトップリーグのレベルを知るため当時J1リーグのチームだった大分トリニータに指定選手として入りました。大学4年時も指定選手の話があり、次は試合の出場機会を求めるため、当時J2リーグのサガン鳥栖に入りました。夏の間の10試合にほぼ全て出場し、経験と実績が積めました。
大学を卒業してJ1リーグの強豪・鹿島アントラーズ(以下鹿島)に入団しました。トップレベルのチームで、周りには本当に良い選手がたくさんいました。当時(2005年)、中田浩二選手や本山雅志選手、曽ヶ端準選手といった日本代表選手も多く、プレーの個性も違うのでそれぞれ影響を受けることがたくさんありました。
中でも元日本代表の小笠原満男選手はオーラも雰囲気も違いました。「あの人についていけば試合に勝てるんじゃないか」と思わせてくれる人というか、プレーで見せる影響力を感じました。今となってはプロとして最初に入団したチームで得るものが多かったので、長く選手としてプレーができたのかなと思っています。
同じFWのポジションにはレギュラーとして鈴木隆行選手、イタリアから戻ってきた柳沢敦選手、そのほかにも外国人選手がいました。このレギュラー争いに食い込んでいければ、日本代表にもなれると考えていました。良いところは盗んでプレーに活かす。身体の強さと身体能力には自信があったので「相手に嫌がられる」選手を目指して常にプレーしていました。
2008年に日本代表に初めて選ばれたときは「やっと入った」という気持ちでしたね(笑)。当時、鹿島でもレギュラーになっていて、リーグ戦でも優勝していたので…。
鹿島に在籍している間、リーグ戦で三連覇しましたが、チームの選手がすごいのであって「僕の力」で優勝したわけではないというのがすごくありました。「ここぞという時にゴール決めた」手応えがなく、自分の勝負弱さを痛感していました。出場機会が減ったことも悔しくて…。
それで当時J1リーグからJ2リーグ へ降格候補だった、モンテディオ山形(以下山形)へのレンタル移籍を鹿島に打診しました。お膳立てされた状況ではなく、危機的状況のチームで活躍してJ1リーグ残留に貢献できたら、成長できるのではないか…と考えて、引退覚悟で挑みました。
山形では、残留ゴールを決めたり、チーム内の得点王になったりと、「僕の力」で貢献できたという手応えを得ることができましたね。ありがたいことに、チームを離れて10年以上経ちますが、今でもファン投票で一位に選んでもらえたり、メッセージをもらえたりしています。行ってよかったと思いますし、今でも大好きなチームです。
レンタル期間を終え、鹿島に再び戻った時は、ほぼすべての試合に出場していましたが、レンタル移籍の経験で、「今の環境から飛び出すことは自分にプラスになる」と思い始めていて、今後も新たなチャレンジをしたいと考えていました。
ヴィッセル神戸(以下神戸)に移籍して2~3年目のころ、30歳を超えて「優勝も日本代表も経験できたし、これからはサッカーをしながら何かを得たい」と思い始めました。言葉も習得でき、体格も文化も違うため刺激があると思い、英語圏の海外挑戦を考え始め、まずはアメリカのMLS(メジャーリーグサッカー)への挑戦を決意しました。
MLSでプレー中の友人などを介して監督に僕のプレーのビデオを見てもらい、3チームほど練習に参加しました。契約の話もありましたが契約金が希望額より少ないこともあり、アメリカはいったん諦め、日本でプレーを継続することにしました。家族や生活のことも考えなければならなかったので…。
神戸からセレッソ大阪に移籍したあとも、海外挑戦は諦めずタイやインド、マレーシア、オーストラリアなど視野を広げて情報収集をしていました。そんな中、オーストラリアに詳しい方に連絡したところ、「Wollongong Wolves(ウーロンゴン・ウルブス)がFWを探している」と聞き、チームに加入したいという意向を伝えた3日後に正式なオファーがありました。
その1週間後にオーストラリア・ウーロンゴンに行き、チームに加入が決まりました。もともと試合でオーストラリアに来た際に、すごくいい国だなと思っていましたがまさか住むことになるとは思いませんでしたね。もちろん環境が変わることに対して恐怖や不安もありましたが、得るものもたくさんあることを知っていたので、すぐに決意ができました。
ウーロンゴンで選手生活をスタートしたころ、英語力をつけるため語学学校に通いながら練習に参加する生活を送っていました。英語力がないため、練習や試合の中で言いたいことが伝えられないことが一番つらかったですね。チームのメンバーから見たら僕が「よそ者」になるので、やってもらいたいプレーは自分でやる、それでもうまくいかないこともありましたがチームのメンバーを理解することを心掛けました。
サッカーのレベルは正直に言うと日本の方が上だと感じました。自分自身のプレーの面では問題なく結果も出せていましたし、監督からも評価されていたと思います。ただ2年目に、膝の故障が響き、パフォーマンスに自信が持てなくなりました。そこで引退を決意し、監督に伝えました。
引退して1ヶ月たったころ、以前から申請していた永住権の申請が通りました。オーストラリアに居続けられるということで、ウーロンゴン・ウルブスの発展に力を添えたいとチームに相談した結果、アシスタントコーチに就任しました。アシスタントコーチと言っても、実質監督のような役割が多く、非常に忙しくて責任重大でしたね(笑)。1年間の「恩返し」を終えたあと、新しいチャレンジとして拠点をシドニーに移しました。
新しいチャレンジとして、シドニーで「何を一番最初にやるか」と考えた時に、やっぱりサッカーに関することがいいなと思っていました。そこで同郷であるシドニー在住の寺本貴生くんとコンタクトを取り、彼がやっていた子ども向けのサッカースクールの様子を見に行きました。
このスクールには6歳から12歳くらいの子どもたちがいました。日本人として細かく教えている姿を見て、僕と同じ方向を見ているなと感じました。僕がオーストラリアに来て最初に受けた印象が「日本人と比べて細かいターンやステップや足の運びが悪い」だったので、基礎的なことをもっと小さいころから教えないといけないなと思いましたね。
そこで「サッカーをする以前のスポーツ能力を大事にしよう」と言うコンセプトで始めたことがサッカークリニック「Mate FC」です。対象年齢を4歳から10歳くらいに下げて、とにかくスポーツの基礎的な能力をつけることを目標にして指導しています。また、礼儀作法を大事にするよう、挨拶や言葉遣いをきちんと身につけさせる日本式を取り入れて、日本語での指導にあたっています。
クリニックには40人ほど子どもたちがいますが、遊びたい盛りの年齢なので、指導は本当に大変。けれどその中で、例えば100人のうち本気でサッカーをやりたいと思う子が5人いたらいいなー、と思っています。その子たちが大きくなって今度は「元プロサッカー選手」という立場で本気のアドバイスや指導ができたら最高ですけどね(笑)。 今はとにかく「スポーツやサッカーが楽しい、好きだ」と思ってもらえて、少しずつこのような母体が増えていったらいいなと思っています。
今いる環境から飛び出して、新しい世界にチャレンジすることは大事だなと思います。新しい友達や知り合いもできて人脈が広がりますし、視野も広がります。困ったことがあれば色んな人が助けてくれますし、さまざまなことが学べると思います。日本にいたころの自分と今の自分を比べると、考え方の幅が格段に広がりました。
たとえばサッカーでも、上手い人の中に入ってプレーしていると確実に上手くなります。周りの環境に感化されて、結果的に自分にいい影響が返ってきます。特にシドニーには活躍されている日本人の方がたくさんいるので、ありがたい環境にいるなと感じています。
「一歩外に踏み出すこと」は僕にとってプラスになることばかりでした。慣れた環境や居心地の良さの中にいるより、何かを得たい、成し遂げたいなら、やっぱり自分から動き出さないといけないと思いますね。
今後は、サッカー以外のことでも新しいチャレンジをしたい考えています。日本食レストランの経営や日本に進出させたいオーストラリアのアパレルブランドもあり、徐々に話を進めています。これからも新たなことにもチャレンジし続けている自分でいたいし、「オーストラリアと日本をつなげる」ことを一つずつ形にできたらいいなと思っています。
取材:吉田友理
連載『Talk Lounge』の過去記事一覧はこちら
>>https://www.jams.tv/author/jams_talk_loungeをクリック
田代有三さんの情報はこちら
Instagram:@yuzo.tashiro
Mate FCウェブ:https://matefc.com/
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