ボランティアで「デスカフェ」という、死やグリーフについて日本語でなんでも語り合おうというサロンのファシリテーターをやっています。全世界的の都市で開かれている会で、シドニーでは年に四度ほど、ジョージストリート、チャイナタウン、ワールドシティ日本語医療・歯科センター前のスターバックスで、ご自分の飲み物代だけで日本語で語り合っていますので、興味のある方はぜひご参加ください。
さて今月のデスカフェの前に、死についての自分の考えをまとめてみようと思ってこれを書いています。
1.人生が永遠ではなく、誰にも必ず死が訪れるのはわかっています。特に身近な家族の死期のお世話と看取りをしたので、あの臨終の瞬間がわたしにも訪れて、そしてわたしの死後の時期にも世界はいままでと何もかわりなく続いていくのもわかっています。
人は一度だけ人生を与えられて、ある一定期間生きて、そして死んでいきます。そのある一定期間の人生の間は、動けて考えたり感じたりすることができる時間を過ごさせてもらいます。
人生は永遠ではないのだなと思うと、この一日一日の体験が愛おしくなります。普通に体験していることが、まさにミラクルであることを実感します。もっと大事に味あわなければと思います。
2.そんな日々がいつかは終わってしまうと思うと怖い気もしますが、永遠に何百年も何千年も何億年も生きているのかと思うとそれはそれでしんどく感じ、終わりがあってリリースされるのも良いかもとも思います。
いつかは死んでしまうという事実自体は、「自然に起こることは基本的には良いことが多く、必然的なことだ」と思うので、自然の流れでそうなるのならそれも良いかと思います。だいたい生まれてきたのだって、自分の意思で生まれてきたのでもないですし、自然の流れで気づいたら生きており、その延長でいまもその人生を楽しませてもらっているわけです。自分の意思ではなく生まれてきて、生きている間は意思を持たせてもらって人生を楽しんだりストレスや苦境をかいくぐるサバイバル・ゲームをし、また自分の意思ではなく自然に死んでいくのも、それはそれで受け入れて良いのだろうとも思います。
3.しかしこんなことを言っていられるのも、「いつかは死ぬのを知っているけれど、それはもうしばらく人生を楽しませてもらい、ものすごく年をとって70代後半とか80代とか90代になってからのことだろう」と思っているから悠長に言っていられるのであって、これがもし「あなたの場合はそんなに年寄りになってからではなくて、もっと早いこのタイミングで強制終了させていただきます」と言われたら、そんな風に思っていられるのか??・・・まったく自信はないです。そこで起こる憤りやとまどい、やるせなさ、絶望感はものすごいと思います・・・。そしてそれを受け入れられるようになるまで、この場合受容と言っても徹底受容radical acceptance(そのことを好きになるとかでなく、相変わらず非常に辛いものであっても、事実は事実としてそこにおいていけるようになる)できるようになるまでに、壮絶なプロセスをたどることと思います・・・。
4.基本はまだまだ先のこととして抑圧している(あるのは知っているけれど押さえつけて考えないようにしている)、あるいは否認している(そんなことあったっけ?と自分で自分もだましてはじめからなかったかのようにしてしまう)から、限りある人生をそれを意識しないで能天気にやっていけるのだ、とも思います。基本はそれで良いではないか、とも思います。
5.「あの世が、死後の世界があるのか?」という点については、これは宗教的感覚をどのくらい持っているのか、ということにもよるのでしょう。あって欲しいと思います。特に宗教が言うような、すべての苦しみやストレスから解放されて神と一致できるような世界で永遠に過ごせるのならば。「本当に現実にあると思うのか?」という質問に対しては、科学的にはないのでは?と思います・・・。ただ科学でない、魂の世界となると話は別なのか・・・それはただの仮想現実ではないか・・・と話が頭の中でぐるぐるとまわってしまいます。
6.身近な家族の死期のお世話ができて、臨終にも、お葬式にも、火葬場にも、お墓に入れるのも体験することができたのは、人間に死という現実があり、それが誰にも、わたしにも確実にあるのだという事実を実感するとても良い機会だったと思っています。