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GO!豪!!メルボルン アボリジナルアートコーディネーター 内田 真弓さん インタビュー

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アボリジナルアートコーディネーター 内田 真弓さん インタビュー

【プロフィール】

内田真弓    Mayumi Uchida

1966年生まれ。茨城県出身。

航空会社に勤務後、1993年にアメリカへ一年間語学留学。1994年、ボランティアの日本語教師として渡豪するが日本帰国直前に先住民アボリジニアートに衝撃的に出会い深く魅せられる。メルボルン市内のアボリジニアートギャラリーで6年間勤務したあと2000年に独立企業。「ART SPACE LAND OF DREAMS」を立ち上げ現在に至る。 主な活動は日本におけるアボリジニアート展の企画開催でテレビ、雑誌などのメディアにも数多く取り上げられるなどアボリジニアートのパイオニア的存在である。2008年 K.Kベストセラーズより「砂漠で見つけた夢」を出版。

インタビュアー:長谷川  潤、武吉 恵理、小泉 京子

 

活動内容を教えてください。

オーストラリアの先住民“アボリジニ”が描く絵を日本へプロモーションすることです。具体的には個人や政府レベルの展覧会の企画をします。去年1年間はオーストラリア政府が大々的に手がけた展示会をコーディネートしました。今年は東京をベースに、神戸や名古屋でプライベート・コレクションの企画展を2~3回行う予定です。

 

日本での活動は“企画展”が中心ということでしょうか?

企画展のほかには小学・中学・大学や地域の方に講演会もしています。これだけ世界が狭くなっても、日本人にとってオーストラリアはまだまだ遠い遠い国のお話。そこでアボリジニの話をしても、「聞いたことある」「お土産でもらったことがある」「イモムシ食べる人?」という声が返ってくるんですよ。広いオーストラリアの中でも私が行く現場の話を日本人の目線から話すと、実際に体験したことなので説得力が違いますね。とても興味を持っていただけます。

 

メルボルンでの活動は?

残務処理や展示会のご招待状を差し上げるマーケティングの作戦を練ったりもします。あとはメルボルンのギャラリーに顔を出して情報交換もしますね。また買付け前に事前リサーチとしてどの作者がどの居住区でどういう絵を描いているようだというのを調べます。

 

その下調べに基づいてノーザン・テリトリー州に行かれるのですね。

そうですね、ノーザン・テリトリーは私のホームグラウンドです。アリススプリングからさらに400、500キロ離れた居地区へ行って絵の買い付けをします。絵の売り買いだけですとディーラー(画商)になってしまいますが、私は自分自身の事をディーラーではなく、コーディネーター(プロデューサー)だと思っています。アボリジニの絵を理解するため、または好きか嫌いかだけでも感じてもらうため、少し近づいていただくために絵の“バックグラウンド”を知っていただく必要があると思います。そのためには「オーストラリアってどこ?」「アボリジニってどんな人?」「何で絵を描くの?」「なぜこんなに抽象的なの?」という事を解説するのも仕事のひとつです。

 

どのようにアボリジニ・アートを勉強されたのですか?

15年前に突然出会ったアートでしたし、そのころは日本語の文献はありませんでした。英語の分厚くて難しい解説書を読んだけれど分からなかったですね。それでも実際に自分が理解して、“アボリジニ・アートはなんぞや“ときちんと自分の言葉で自分の体験をお話できるよう、実際にアボリジニの居住区へ通うようになりました。しかし、居住区とはアボリジニの方が普通に生活している場所です。なので、彼らに私を受け入れるメリットは何もなく、何度も断られて無視されましたよ。今では儀式に参加したり、一緒に狩りをしたり、絵を描いている以外の時間の共有を大事にしています。それらが買い付けよりもずっと価値があると思っています。

 

オーストラリアにいらっしゃったきっかけは何ですか?

1994年に日本語教師としてオーストラリアに派遣され、ボランティア活動をしていました。日本で買った地図にその地名さえも載っていないほどの小さな村で、スーパーもなく買い物は隣町まで行くほどの田舎町でした。ボランティア活動としては、小学校の低学年に“あっちむいてホイ”や折り紙を教えたり、割り箸を割らせたりしましたね。高学年になると自己紹介をさせてみたりもしました。

 

ではアボリジニ・アートとの出会いのきっかけは何ですか?

帰りたくはありませんでしたが、1年間のみ有効のビザだったのでどうしても帰らなければならない状態になりました。仕方なく帰りのチケットを買って、帰国2週間前にお土産を買うため田舎町から大都会メルボルンへやってきました。その日は帰りの電車がないのでバックパッカーに宿を取り、メルボルンを満喫している最中急に雨が降ってきて、雨宿りのために入ったのが“アボリジニ・アート・ギャラリー”。それが出会いです。そこで初めて見たアボリジニ・アートに釘付けになりましたね。

その何千点と飾ってある絵に、まるでカミナリがおちてきたみたいな衝撃を受けました。でも意味が分からないし、書かれている解説はもちろん英語。バックパッカーの私を誰も接客はしてくれませんし、しまいには「もう閉店だから帰ってくれ」と言われました。スタッフが次々に帰る中、「Are you Japanese?」と声をかけてくれたのがギャラリーの社長でした。絵を買うはずもない私に「アボリジニが築いてきた伝統文化や抱えている問題」をこんこんと説明してくれたんですよ。「もう何されてもいいや」と思うくらい面白い話をしてくれ、本当に素敵なコレクションを見せてくれました。ドキドキ・ワクワクさせてもらったのですが、その日は帰ろうと思いバックパッカーへ戻りました。

 

ずいぶん、衝撃的な出会いですね。

久しぶりの大都会で面白い話を聞いて興奮しちゃって、ギャラリーから帰っても眠れなくて。翌日 “どうしても”忘れられなくて、帰りの電車の時間までまたギャラリーへ…。するとボスが1人で店番をしていて、「お前また来たのか」と言われました。そして今度は具体的に「日本帰ったらどうするのか」、「仕事はあるのか」という話をし、昨日で出会ったばかりの人に「ここに残る気あるのか」と聞かれ、私は「残りたい」と思いました。そしたら彼が、アートの経験・学歴や知識ない私のビザのスポンサーになってやると言ってくれまして。2週間でビザの申請をしました。

 

メルボルンのギャラリーでのお仕事はいかがでしたか?

最初、アボリジニ・アートのことは分からないから電話一本とれないし、接客も出来なかったですよ。お客様が来たら目を合わないように隠れまわっていました(笑)。毎日、「アートを売るときには何をしたらいいのだろう」って考えましたね。これがメルボルンの最初の生活。それから夢中です。今でも夢中です。

 

アボリジニ・アートは変わってきていますか?

オーストラリアにおける色々なシステムが変わっているようにアボリジニも変わっています。私がアートを通して見てきた先住民としての地位・権利・位置付けは変わっていますね。正直に言って、昔雷に打たれたような、ワクワクする面白い絵がなくなってきています。以前は欲しい絵だらけでしたが、今はどこを探してもなかなかありません。買い付けに行っても手ぶらで帰ってくる時もあります。

 

良い絵は売れてしまったということでしょうか?

面白い絵を描く“画家”がもういないのです。1971年に美術としてモダン・マテリアルに描く“砂漠のアート”は始まりました。それ以前は文字を持たないアボリジニは伝達のために自分の体や砂の上に描いていました。見せるためのものではなく、伝達手段は全て絵です。私達は“アート”として見ているけれど、アボリジニにとっては文字に変わる大事な地図・距離・位置・神話、コミュニケーションで絵はストーリーになっています。

残念ながら、そのストーリーを描ける画家はもう亡くなってしまいました。今の若者は狩には行きませんし、テイク・アウェーを食べて、白人のような生活をしています。そんな彼女達にストーリー性を求めても、それは無理な話です。また彼女達はアートが高値で売れるのを知っていますから、トップ・アーティストの絵を真似て同じ絵を描きます。お金持ちになれるだろうという発想ですよ。しかし、それはストーリー性を全く感じられないただのデコレーションです。私は日本の展示会でそれをアボリジニの歴史だとは言うつもりはありません。作品が手に入らなくなればやりませんし、やってはいけないと思います。

 

アボリジニの生活そのものが変わってきているという事ですか?

15年前でも西洋文明は入っています。今スーパーはあるし、居住区はアルコール禁止なので四駆に乗りつけて居住区から450キロ離れたアリススプリングまで日帰りでビール一杯を求め行きますからね。明日、口に入るものは全て大地からのめぐみ。何百年、何千年と暮らしてきた彼らが最も大事にする部分を、コンビニで簡単に食べ物が手に入るような現代文明に生きる私達には分からないことが多くあります。それが本当に面白く絵に描かれていて、それを語ってくれる語り手のおじいちゃんやおばあちゃんが昔は大勢いました。概念が違うわけですね。

 

今でも変わらない部分はありますか?

一年に一度だけ集まる儀式があります。私も一緒に儀式に参加しますが、話をしているだけでも鳥肌が立つくらい見事ですよ。儀式の撮影は一切禁止、記録もダメで、目で見たことは文献にも書いてはいけません。あちこちから何百人と来ているので代わる代わる自分達の部族の儀式や踊りを披露します。そして自分達のチームの出番が来ると体中にペイントします。そのペイントが今、私達の見る“アート”です。いれずみではないので終わると消してしまいますが、水はないのでTシャツで拭う感じかな。でも残念ながら、その儀式をとても大事にしているおばあちゃん世代がいなくなると若い世代はもう行かないでしょう。遠いですし、水も一滴ない・トイレもない、何もないとても厳しい環境ですから。

 

その儀式には誰でも参加できるのでしょうか?

招かれれば参加できますよ。ただ、私は“10年”かかりました。受け入れてもらうために10年間通いましたよ。行くとおばあちゃんのお世話をしたり、一緒に狩をしたり、私が何者か分かってもらうために時間を共有しました。

 

夜はどちらに泊まられるのですか?

ホテルなどはないですから、その居住区で知り合いになった白人のおばちゃんの家に泊めさせてもらいます。今はもう白人の手なしにアボリジニ居住区は成り立ちません。スーパーの荷物管理・運搬・お金の管理・政府への報告も白人によって管理されていますし、社会保証(年金、生活保護、出産手当)の窓口になる小さなオフィスも運営されています。対象になるアボリジニは2週間に一度“Pay Day”に申請に見合った金額を受け取ります。

1967年にアボリジニは市民権を取りました。つい40年ほど前です。法律は国民を平等にサポート(保護)しますから、そこで始めて彼らに定期的にお金が入るようになりました。しかしそれまでは、英語を話さない、肌の色が違う、トカゲとかを食べているというだけで国民として認められていなかった。そしてアボリジニの人口がどのくらいで、またどのような生活をしているのか誰も把握していなかったのです。不思議な話です。

 

盗まれた世代についてはどう思われますか?

純血のアボリジニとは別に混血アボリジニが8割以上います。昔は隔離政策があって、アボリジニの血が半分入った肌の色が真っ黒ではない人(混血)を強制的に白人家庭へ連れて行き、親御さんから引き離しました。英語を強要して、キリスト教を信仰させ白人のように育てましょうという政策です。

その“ストールン・ジェネレーション(盗まれた世代)”の対象になった女性画家を知っていますが、彼女の話を聞くと生々し過ぎて泣けますよ。まだ7歳の時、水を汲んでいる際に突然連れ去られ、分からないところへ連れて行かれました。その当時、子供を引き離されるのは当たり前で、親は悲しみを乗り越えるために子供のお葬式をしました。子供はもう死んだも同然となります。しかし、その彼女が20年後に自分のルーツを見つけ、母に会いに行きました。母親と再会した時はお互いまるで宇宙人を見るかのようだったそうです。

 

“ナショナル・ソーリー・デー”に対してアボリジニの反応はいかがでしたか?

“ナショナル・ソーリー・デー”(2008年2月13日)にケビン・ラッド首相はストールン・ジェネレーションに対して初めて謝罪しましたね。革命的な一日でした。反応は色々でしたよ。ようやく、国がアボリジニに対して償い、いけないことをしたと認めたわけですから。ただ「ごめんなさい」と言うと、国として保証をしなければならないので政治家としてはなかなか言えないことだと思います。

なぜメルボルンにお住まいなのですか?

どういうわけだかメルボルンに惹かれます。最初にアボリジニ・アートと出会ったのもメルボルンですしね。以前は居住区に住もうと思ったことがあります。アートにドップリつかり、彼らがいつ絵を描いて、どういう作品がどういう価格帯で売れるのかというのを日本人として学びたいと思いました。しかし、結論から言うとビジターとして行った方が楽しめると思いました。私は2~3ヶ月のペースで訪ねる方がワクワク感が持続します。

 

最後にメッセージをお願いします。

オーストラリアに来たきっかけは何でもいいのです。“自分はここで何をしたいのか”が大事。時間なんてあっと言う間にたちますからね。それに人の価値観は自分の回りの環境で変わります。価値観の違うアボリジニと接して、価値観ってなんて曖昧でいい加減なものかと思わされました。私は日本を飛び出して良かったと思っていますよ。

【内田真弓 ホームページ www.landofdreams.com.au

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