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高橋なんぐさん(お笑い芸人)2

もったいないことを。

 いまでもみんなに言われます。でも、お笑いなら東京や大阪に行くのが当たり前、というのがどうもイヤで。やりたいことを、やりたい場所でやるのが一番だと思って。新潟で生まれ育ったので新潟でやろうと思いました。それで15歳のときから、土・日は仕事、月〜金は高校という生活を3年間続けたんです。でも仕事なんてなくて、商店街のお祭りの司会だとか、ほとんどお金ももらえない状態でした。最初はすべて勉強と思ってやってました。当時、新潟県は自殺率が全国ナンバーワンだったんです。新潟県人はネクラで引っ込み思案で、漫画家しか育たないなんて言われていました。ですからお笑い集団なんて作っても無理だよ、根付くわけないよと言われました。でもそう言われると燃えるほうなんで、それで何とか10数年やってきました。

高校卒業してからの生活は?

もう、それまでは土・日だけだったので、本格的にお笑いをはじめました。でも、食べられるようになったのはここ2、3年ですね。仲間はみんなバイトをしながらでしたが、ぼくはひねくれていたので、バイトもせず、お笑い一本でやってました。ぼくはこの世界で生きていくと15の時に決めたので、「バイトなんてしたくない」「バイトするぐらいなら女で食った方が芸人だ!」「女房泣かせるのが芸人だろう」ってみんなに言ったんですが、誰も聞いてくれず、みんなはコンビニやカラオケ店でバイトしてましたね。

女に食わせてもらってた。

はい、いっぱい女を作って食わせてもらってました…もう時効ですよね。実は家賃は、例の賞金100万円から、高校卒業する3年後に苦労するのは分かっていたので、家賃3万円で2年半、30カ月、90万円をとって、残り10万はじいちゃんばあちゃんに温泉旅行をプレゼントしました

意外と堅実なんだ。

いやらしいでしょ?(笑)

交通費2万円返したの?

あっ、忘れてました。(笑)

でも、どうして突然、海外へ?

それまで「新潟お笑い集団NAMARA」を立ち上げて、いちおうエースとしてやっていたんです。

ぼくの中では新潟で終わらず、いずれ全国に発信していきたいと思っていたんですが、お笑い集団の仲間は、新潟でいいかな、大体これでウケればいいや、という雰囲気になってきて、そのうち、そこそこ食べられるし、テレビに出てそこそこ顔も知られて、これでいいかなとなったのがぼくとしては面白くなくて。そんな安住している空気が許せなくて、最終的にとった手段がぼくが離れるということだったんです。とにかくNAMARAから離れることがとりあえずの目的でした。

ぼくは15歳のときからお笑いの世界でやっているんですが、新潟から外に出たことがなくて。離れるということは東京でもよかったんですが、どうせならもっとぶっ飛んで、季節も真逆の南半球がいいかなと。

来年4月に日本に帰るということだけど、うまく戻れるの?

戻ってみないと分からないですね。お互い離れていたかいがあったなと感じられれば、NAMARAで一緒にやっていきますし、そうでなければ一人でも行動していくと思います。

 

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