ひところ日本のインターネットサイトで自殺サイトが話題になりました。仲間を募って一緒に自殺する事件も続きました。
人はさまざまな理由から自ら死を選ぶことがあります。ストレスからくる衝動的な自殺や、責任を追及されて追い込まれての自殺、理不尽な仕打ちに抗議する自殺、自らの潔白を訴えるための自殺、将来に希望を持てない逃避の自殺…、最近では自爆テロという自殺もあります。
芸能人や有名人の自殺は大きく新聞紙面を飾ります。抗議の焼身自殺や自爆テロなど、社会的な事件となって大きく世論を動かすこともあります。
オーストラリアでは「自殺」はタブー視されています。新聞記事に「自殺」が掲載されることがほとんどありません。自殺事件があっても、「死亡には不審な点が見られない」という書き方で自殺をほのめかす程度です。
背景には宗教的な事情があるのでしょうか。一般的によく言われるように、カソリックでは自殺は禁止されているということがあるのかもしれません。
ところが、ここにきて自殺の報道の仕方について論議が起きています。
ニュー・サウス・ウェールズ州では、交通事故死よりも自殺の数が50%も多いのです。州政府は交通事故防止のために年間1000万ドルの予算を組んでいますが、同じように自殺防止のキャンペーンのために予算を組むべきだという声が上がっています。
そろそろメディアの報道でもきちんと自殺に関して伝えてもよいのではないかというのです。
自殺は繊細な問題だからメディアが報じるべきではないという意見も根強くあります。残された家族にとっては、病死や事故死と違い自殺は非常に影響が大きいから、公にすべきではないという考えです。
ただ、35歳以下の人たちの死因では自殺が無視できない死因となっているなど、真剣に自殺防止の対策をとるべき時期に来ているようです。
これを受けてオーストラリア・メディア・カウンシルでは、自殺に対して新たな報道基準を決め、自殺の報道は社会的に必要性があるとの立場を明確にしました。また、自殺報道をタブー視しないとしています。もちろん報道することによって、家族に二次被害を広げたり、自殺を奨励したりするようなことがあってはならないとしています。
自殺の背景を報じることで自殺防止につながるのならそうすべきでしょうが、ネットの世界で自殺サイトが注目されるように、どうしてもさまざまな理由から自殺を考える人に対して有効な手だてはないのかもしれません。
自殺の現実を見つめて、自ら死を選ぶことの意味を突き詰めて考え、その背景を浮かび上がらせるような報道によって、社会的に自殺を考えていくことでしか自殺防止にはつながらないのかなと思います。
オーストラリアのメディアが変わることで、多少変化が起こるのか、自殺防止に社会が動くのか、期待したいです。