水泳界では世界的に有名なイアン・ソープ・アクアティック・センターはじめシドニーの3つのスイミングクラブで水泳コーチを務める蓮沼萌衣子さん。
これまで数々のオリンピック選手を輩出してきた日本体育大学を卒業し、大学時代も学生コーチとしてチームを日本選手権3連覇に導いた経歴をもつ。
高校生にしてぶつかった競技とキャリアの間に揺れる葛藤、大学卒業後まもない最愛の父の他界。インタビュー中終始屈託のない笑顔で周囲を和ます彼女の天真爛漫さからはそんな苦労は想像もつかない。
父からの最後のメッセージを機に渡豪の決意を固め、今も水泳とともにライフステージを歩み続ける彼女に、水泳大国オーストラリアの本場の水泳教育について伺った。
蓮沼萌衣子、25歳です。神奈川県から来ました。日本体育大学出身で、当時は学生コーチとして水泳部に所属していて、日本選手権を3連覇しています。
肩書き的に私は「マネージャー」として所属していたのですが、日体大水泳部は少し特殊で、全ての選手を見るには、コーチ一人だけでは足りないのでサポーターとしてマネージャーも学生コーチとして指導しています。日体大には他にも映像分析担当や選手のコンディションに合わせてメニューを考案するトレーニング担当部員もいますね。
水泳を始めた入り口としては、母の影響が大きかったです。母が水泳のコーチだったので、3歳頃から水泳を始めて気付いたら日体大に入っていました(笑)。水に入ったのはだいぶ早かったので、小さい頃から水に対する恐怖感はあまりなかったです。
父も学生時代は競泳選手でした。
私は競技成績はあまりもっていなくて、高校3年生のときにインターハイで決勝に残らなければ水泳は辞めるつもりでした。結果的にはインターハイには出場できず、「私の水泳人生終わったな」と思っていたところに「日体大なら選手ではなくて学生コーチとして水泳部に入部できる」という話を聞いて、それが今まで水泳を続けていることにつながっていますね。
今まで集中して何かに没頭することができなかった私が唯一没頭できたのが水泳でした。大学時代は基本的に水泳のために生活していたので部員全員で寮に入っていました。マネージャーはコーチと選手の間を取り持つ役柄なので、練習後に選手とマンツーマンで反省会をしたり、料理の写真を送ってもらったりして普段の食生活チェックもしていました。
当時の目標はオリンピック選手を輩出すること、日本学生選手権で優勝することを掲げていましたが、日本学生選手権は3連覇できたので達成できたかなと思います。あとはオリンピッック選手の合宿も見学させていただく機会もあって、それも良い経験でした。
日体大を卒業してからは、教員免許をとるためにまた大学に通い始めました。教員免許を取った方がいいっていうのは父からのアドバイスでした。実はその時、父は末期がんで私が日体大を卒業してからの1年間は母と闘病中の父を看病していました。
そのときは水泳を将来どうつなげていけばいいのかも分からず、夢がなかったんですよ。周りの友人は遊んだり、就職して社会に出たりして楽しそうなのに自分はやりたいことがないと悩んんでいたときに、北島康介さんが立ち上げたスイミングクラブ「KITAJIMAQUATICS(キタジマアクアティクス)」で働いている方に出会いました。
そこで、「働きたいです!!」って猛プッシュしたところ、その会社はとてもフレキシブルなので私をフリーランスのようなかたちで雇っていただけることになりました。母と父の介護を交代しながら空いた時間に仕事ができたので、すごく会社に助けられましたね。
私が働いていたキタジマアクアティクスは、少人数制のレッスンがウリで、レッスンでは泳ぎ方の分析に近いことをしています。たとえば腕が回りづらかったら、どうして回りづらいのか一緒に考える、みたいな感じですね。とにかく「考える水泳をしよう」というのがキタジマアクアティクスのテーマです。
1つのカリキュラムに沿って教えるのではなく、生徒一人ひとりの問題に対して一緒に考えます。大学時代から考える癖はついていたので、キタジマアクアティクスの「考える水泳」のスタイルにはあまり苦労することなく慣れました。
一番大変だったことは、都内で働くとなると自分のネームバリューや肩書きが求められたことですね。みんな日本代表だったり、個人で全国大会に優勝している人たちばかりが周りにいる中で、私は何も肩書きをもっていなかったので、いつも周りと比べ劣等感を持ったまま働いてました……。
そこがすごく悔しくて、「水泳は続けたい。だけど私には肩書きがないから続けられない」と父に相談したときに、父は「海外に行って何かしらの資格を取って日本に帰って来ればみんなの見る目も変わるはず」とアドバイスをくれました。
その時の父は余命宣告を受けていて、生死の瀬戸際でもあるにも関わらず、まさかそのタイミングで海外に送り出してくれると思っていませんでした。就職活動していた時でさえ何も言わなかった父が、本当にサラッと「海外行った方がいいよ!」と言ったんです。
ちょうどその直後に父が亡くなって、「これは行けってことなのかな……」と思い、オーストラリアに発ちました。オーストラリアに決めたのはもちろんオーストラリアが水泳大国だからです。正直日本に残りたい気持ちもありましたが、決めた瞬間にすぐに準備を始めましたね。
今オーストラリアに来てから6カ月目が経ちます。ちょうど今、私が働いている会社で働いていた先輩が日本に帰国予定で、「入れ違いで入っちゃいなよ」と紹介してくれました。
ただ水泳コーチの資格を現地でとらないと働けないので、渡豪早々資格の勉強をして試験を受けて、今の会社に入りました。
試験を受けたのはAust swim(オーストスウィム)という団体で、座学と実習の試験があり、働くまで全部で2カ月くらいかかりました。日本と比べて、オーストラリアは子供の教育に対して本当に厳しいです。
日本だと水泳コーチに資格はいりませんが、オーストラリアでは本当にやりたいという気持ちがなければ大変だと思います。提出書類もたくさん書きましたし、CPRやチャイルドケアの資格など必要な資格もたくさんあって、時間とお金が本当にかかりました。
日本って結構安全なイメージがあると思うんですけど、オーストラリアの方がずっと子供の安全管理に関しては厳しいと思います。私が実習試験を受けたとき、たまたま子供達がやんちゃでじっとしない子達で、私の試験中も潜ったり遊んだり好き放題(笑)。
それでも安全だけは守らなきゃと思って、「潜ったら危ないから、顔だけは見せてちょうだい」って声をかけていたんです。それが意外と試験官に高評価だったようで、「あなたはレッスンはできていなかったけど、子供達に水の怖さを教え、セーフティを守っていたから合格よ」と言われました。
今はイアン・ソープ・アクアティック・センター(シドニーにあるスポーツ施設)とシドニー・クリケット・グラウンドのプールで働いていて、その他にも個人でプライベートレッスンをしています。
日本とオーストラリアでは水泳指導はもう全てが違います。日本であれば最初は一人ひとりに対して手取り足取り教えてあげると思うのですが、オーストラリアでは「なるべく子供達に触らないで!」と言われました。
最初は「なんで触っちゃいけないの 」と思いましたが、「子供達は自分達でできるから、ギリギリまでは触ってはだめ。間違いは子供達が自分で意識もって直すべきことだから」という考えのようです。
よくこっちのコーチは、「Do you need any help?(助けは必要?)」と子供達に聞くんですよ。「いや、要るでしょ!」って最初は思っていたのですが、オーストラリアでは助けが必要であれば助けるし、必要ないならば自分で何とかしてもらうってスタイルですね。
水泳コーチとして私が意識していることは2つあって、1つは先に褒めてから直して欲しいことを伝えるようにしています。子供も大人も最初にマイナスのことを言ってしまうと、後の情報が入ってこないと思うんです。例えば、「さっきのキックよかったね! ただもう少し手を伸ばせたらもっと良かったかもしれない」と言うようにしています。
2つ目は、「手は離しても、目を離さず」です。これは高校の恩師に教わったことで、それ以来、実はずっと忘れていたのですが、オーストラリアに来てハッとその言葉を思い出しました。「あ、恩師が言っていたことはこういうことか」と。
オーストラリアの子供たちは日本の子供たちよりも自由です。レッスンを見れば一目瞭然ですが、日本の子供たちってじっとして話を聞いてくれるんですよ。私があえて小さい声で話すと何も言わなくてもちゃんと聞こえる位置まで近づいてくれたりして。
でもオーストラリアの子供たちは「こいつ声小さいなぁ」みたいな顔してきます(笑)。それだけエネルギーに溢れているってことだと思いますけど。今は「必要があったら助けに行く」のスタンスでいます。
オーストラリアに行く前にセブ島に語学留学しましたが、それ以前は留学に向けた準備は全くしていなかったので、英語の勉強には本当に苦労しました。ろくに受験勉強もしたことがなかった私は、恥ずかしい話「apple」もまともに書けなくて(笑)。
もはや英語どころか日本語も危うく「現在進行形」の意味も分からないレベルでしたが、セブ島に5カ月くらい滞在してやっと人とギリギリ会話ができる英語力になりました。
オーストラリアで水泳コーチを始めてからは、親御さんとのコミュニケーションも全然スムーズにいきませんでした(笑)。親御さんもお子さんがその日どうだったか気になって私に聞いてくる方も多いので、私はあらかじめ言い回しを用意して、自分からお子さんの様子を伝えています。
親御さんたちも会話の中ですぐにレスポンスが返ってこないと、「この人分かっているのかな?」ってすごく不安になると思いますし、ただでさえ日本人で英語が話せないとなるとナメられやすいので、もう相手が私に聞きに来るか来ないかのタイミングで、自らガッと報告に行きます(笑)。
積極的に自分から行動することで、言葉がある程度不自由でも信頼が得られると思って。オーストラリアは移民の国なので日本人もそこまで珍しくないですし、堂々としようと思っています。渡豪前に思い描いていたより3倍くらいオーストラリアでの生活は大変でしたけど、その分収穫は大きいですね。送り出してくれた家族や、オーストラリアでのフラットメイトの支えがなければここまで来れていないと思います。
水泳という側面で見たら、100%以上の成果はオーストラリアで出せているのかなと思います。
大学時代は、自分がやっていることがどう将来に結びつくのか分からなくて悩んでいました。水泳に関わっていくとしたらやっぱりコーチの一択しかないと考えていたのですが、20年先ずっと自分がコーチとしてやっていくビジョンが浮かばなくて。
当時は一生水泳に関わっていくためにはどうしたらいいんだろうってずっと悩んでいましたね。一方で水泳は身体を使うものなので、歳をとりながらも水泳コーチを続けていた母を客観的に見ても、「水泳をずっと続けていくって大丈夫なのか」という不安もありました。やってみたら分かるのですが、子供を持ち上げたり、やっぱり水泳コーチはすごくハードなので。
ただ、オーストラリアに来てから、もう次のステージが見えるようになってきて。プライベートレッスンはここをもっとこうしたら良くなるんじゃないか、とかいろいろと欲も出てくるようになりましたね(笑)。
今後、ワーホリに挑戦する方にアドバイスするとしたら、「行動力をつける」ことです。まずやってみて、それに必要な努力は後から補う。私の場合、水泳のレッスンをまずやってみたけどできなかった。じゃあ次できるようになるために~を努力しよう、といつもこんな感じです。
オーストラリアでは水泳指導に限らず全般において、まずは自分でやってみる、それで助けが必要だったら周囲に求めるっていう考え方が根付いていると思います。私は水泳だけでなくて、スポーツ全般に関わることが好きなんです。オーストラリアはエクササイズ大国ですし、有名なヨガやマラソンもやってみたいと思っています。
今後もスポーツと関わりながらオーストラリアに残れたらいいですね。スポーツは、私にとって最初はキャリアでしたが、今となってはどちらかというと「生き方そのもの」に近いですね。今後は働き方も自分でつくっていきたいです。フリーで働くとすればやっぱり肩書きが必要なので、今はオーストラリアでキャリアを積んで、将来自分で生活できるくらいになりたいですね。
時間が許す限り人生ずっと新しいことを学び続けていきたいです。
取材:德田直大
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