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時代を共有するということ

まだまだ余震の続く日本の現状を知ると、オーストラリアに住む身としては、なんだか申し訳ないような気持ちになります。いますぐに、ボランティアとして参加したいと思う方も多くいることでしょう。

何度も書きましたが、このような大震災に遭っても、必ず日本はたくましく復活、再生すると信じていますし、皆さんも同じ気持ちだと思います。

今回の災害は「戦後最大の災害」と言われていますが、戦後の焦土と化した国土から見事に経済復興を成し遂げ、高度成長の道を歩んだ国民は、いまではリタイアしてしまった高齢者のみです。その意味で、敗戦からの復興を知らない多くの国民が、それと同じような被災からの復興を目指そうとしているわけですから、はたしてうまくいくのか不安があるのも確かです。

歴史を振り返ると、世代毎に、その時代を生き抜いたという共有体験があります。敗戦後の何もないゼロからの出発をした戦中派世代、高度成長を歩んできた団塊の世代、バブル期を生きた新人類、失われた20年が当たり前のネット世代…。その時代時代の共有体験は、第三者的に見ると、一括りにする便利なものさしとなり、当事者にとっては意識を同じにする連帯感を生みだしてもくれます。

これは世代論ということではなく、もっと身近な体験ということに焦点を当てると、それは例えば、東京オリンピックや大阪万博を体験して日本の力を実感したということだったり、浅間山荘事件をテレビの前にくぎ付けになって見ていたということだったり、阪神・淡路大震災を体験して初めてボランティアに参加したということだったり、無差別殺人の秋葉原事件に東京にいた犯人と同世代ということだったりするわけです。

今回の災害を例に挙げると、1995年1月17日の阪神・淡路大震災を体験したり、ボランティアで参加したりした人たちは、その共有体験を持って、このたびの大震災に立ち向かっていくことができるわけです。2011年3月11日の東日本大震災を身をもって体験した人たちは、その共有体験を持ってこれからの人生を生きていくことになります。そしてその時代を共有して、この共有体験を元に物事を考え、毎日の生活を生きることになります。

例えば海外に住んでいると、その共有体験がかなり薄まっていることも確かです。なにしろ実体験がありませんし、テレビのニュースで遠い外国のような気分で見ているだけですから。1995年のシドニーでは、もちろん被災者支援の募金活動がありましたが、街頭で募金活動を行ったわけでもなく、日系団体を通じて寄付を行なった程度でした。

2011年の今回はそれが大きく異なります。シドニーに住む多くの日本人の方が、私も何かしたいと立ち上がり、大きな動きとなって募金活動が各地で行われました。何もシドニーに限らず、世界中で同じような支援の動きが生まれています。まさに、こうして時代を共有したわけです。

その時、その場所にいなくても、体験を共有することはできます。同じ時代を共有することが可能です。それを可能にした、1995年と2011年の大きな違いは何でしょうか。それはインターネットです。ネットによる情報の共有化が世界的な規模で瞬時に可能となり、わたしたちはいま、時代を共有することができるのです。

「でもそれって、結局、バーチャルじゃないの?」  もちろんその面も確かにありますが、溢れんばかりの支援の動きとそれを伝える情報、個人個人が世界に発信した自分の声は確かなものですし、その情報の持つ力は仮想現実の世界を突き破る大きな共有体験となっているのも事実です。

このことは、復興・再生の動きにおいても、これからの社会においても、大きな力になると思います。

 

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