オーストラリアは障害者がわりと暮らしやすい国だと思うのです。日本ではまだまだ差別があって、それにバリアフリーの環境が整っていないためか、多くの障害者は外に出ることが少ないようです。
それに比べてオーストラリアでは、街を歩いていると車いすの人など普通に目にしますし、かといって過度に障害者を意識することもなく、みな自然に振る舞っています。すでに社会の中に障害者がとけ込んでいる雰囲気を感じるのです。
例えば、車いすで電車に乗り込む場合、駅員を呼んでホームと車両の間に板を渡してスロープにして、乗り込みます。バスではドライバーが降りてきて手助けしてくれます。そんな介助を周りの人も手助けしたりして、自然な光景として見ることが多いのです。
また、多くの建物には車いすがアクセスできるようにとスロープが設けられていたり、リフトが用意されています。国が社会政策として社会のバリアフリー化を推進しているのですが、もちろん中には、余計な経費がかかるといって反対する人もいます。ビジネスの観点からすると、過度に障害者対策をすることには経費がかかり、できれば避けたいというのが本音のようです。
先日出された裁判の判決は、そんなことを考えさせるものでした。
ジェットスターに乗ろうと予約した人が、航空機には車いす用の席が2席しか用意されていなく、すでに他の2人から予約が入っているために乗ることができませんと断られたので、ジェットスターを裁判に訴えたのです。この人は障害者団体の会長を務めるなど、日頃からバリアフリーのための運動をしていて、今回の裁判でも損害賠償などを求めたわけではなく、航空会社の姿勢を問うたわけです。
判決では、裁判官はジェットスターの差別行為を認定せず、車いすの人の敗訴となり、裁判費用など2万ドルの支払いが命じられました。
航空機に2席しか車いす用の席を用意しないのは、はたして十分なのか不十分なのか、意見が分かれるでしょうが、航空会社は、結局、全てコストとなって料金に反映されることからバリアフリー対策にも限度があるというわけです。
車いすや障害者に限らず、社会的弱者にとってさまざまなバリアが社会にはあるわけですが、なかなかそのことを、いわゆる健常者は知ることもなく、理解もされずに、バリアがそのまま放置されていることが多いわけです。そこで差別されていると感じた社会的弱者が立ち上がり、時には裁判に訴えて、改善を要求してきました。
そうすることで政府もようやく動き出し、さまざまなバリアフリー対策を講じてくれて、次第に障害者もみなと同じように出歩いたり、楽しんだり、遊んだりということができるようになりました。
このジェットスター裁判もそのような活動の一環なんでしょうね。敗訴した人は控訴して、新たな判断を求めています。
ところで問題なのは、ジェットスターの対応とか判決内容ではなく、訴えた人に対する誹謗中傷です。日本でもよく問題になっているネット上での誹謗中傷する書き込みと同じく、この件に関してもウェブ上で、「車いすは飛行機に乗らずバスで行け」「お前たち障害者はどこまで他人に助けを求めるんだ」「お前が障害者になったことに、俺は何の責任もない」…、などという書き込みが多く寄せられたということです。
早速、新聞の社説では、「オーストラリア人の良いところは、あまり他人に干渉せず、なんとかなるさという楽観的な心情だったはず」「イージーゴーイングの国民性が、ひとりよがりの自己中心的な意見に晒されている」として、今回の第三者による誹謗中傷は実に情けないと訴えています。
オーストラリアでもネットの書き込みによる誹謗中傷が増えているんですね。匿名性を利用したインターネット社会の負の側面ですが、なんだか不機嫌な社会になっているのでしょうか。もはや他人を思いやる心などなく、他人を攻撃する術には長けているというネット社会の現実でしょうか。
(水越)
せっかくワーキングビザを取ってオーストラリアに来たのに、 ・ 全然仕事が見つからない ・ 仕事が日本食レストランで日本語…