未分類

トライアスリートの第一人者 庭田清美さんに直撃インタビュー!

 
まずは、トライアスロンを始めたきっかけを教えてください。
 働いていたスポーツクラブの会員さんに誘われたのがきっかけです。泳いで走る「アクアスロン」の参加費が8000円だったんです。私はそのころ焼き鳥屋でよく飲んでいたのですが、「8000円あったら焼き鳥屋で2回飲めるな」と思うと、もったいなくて…。まだ(競技を)やったことがないからその価値が分からないので、「そんなものに8000円も払う価値はない」と思ったんです。だから初めは嫌だったんです。申し込み用紙も捨ててしまっていたんですけど、申し込み締め切りの日ぐらいにまた(会員さんに)しつこく言われてしまって、事務局にまで電話をかけられてしまったので、仕方なく次の日に参加費を振り込みました。そして「申し込んだからには…」と準備することにしました。

 その大会は1.5キロ泳いで10キロ走るというもので、泳ぐのはまぁ遅くてもなんとかできるかと、溺れることはないと思いましたが、10キロなんて走ったことがないので走るのをどうにかしないといけないと思いました。準備には申し込んでから2カ月ぐらいはあったんですけど、最初は2キロぐらいしか走れず、それでトレッドミルなどを使って距離を延ばしていきました。結局室内のトレッドミルで1回10キロ走って、それから出ました。

 その頃、女性の参加者が少なかったので、その大会で4位になったのです。そこで味をしめて、次はトライアスロンに挑戦したいと思ったわけです。でもそのトライアスロンでボロボロの成績だったのです。トライアスロンでも6位ぐらいに入れるかと思ったら、とんでもなかった。けっこうビリの方だったので、それで本気で取り組むようになりました。1994年のことでした。

 1995年に結婚して、じつはそこで競技を辞めようとしたのですが、すでに申し込んでいた大会で優勝してしまったんです。いろいろな賞品をもらいました。たとえばパスタ1年分とか、マウンテンバイクもいただいたし…。その頃はまだ景気が良かったので、賞品がものすごく良かった。ジュースとか結構いろいろなものももらい、それがうれしくて、「これはしめたものだ」と思って、もうちょっとやってみたら面白くなるかなと思うようになり、そのまま続けることにしたのです。

 そんな感じでやっているうちに知り合いの人に声をかけられて、「もう少しがんばってみたらどうか? オリンピックの競技になったから狙ってみたらどうか」と勧められました。オリンピックには興味なかったので、「何言っているんだこの人は?」などと思っていましたが、自転車屋さんの方に、もし本気でやるのであれば自転車の面倒をみるよ、と言われ、「そうか、嘘でもイエスと言っておこうかな」と思って「もうちょっとがんばってみたいと思います」と返答し、そこから自転車の練習とか自転車の用品などのサポートをいただくようになりました。

 そのうちに強化指定認定記録会があり、その第1回に出場したら、強化指定選手になってしまったのです。それで大きなレースに出られるようになり、いきなり初めからワールドカップに出ることになったのですが、このレースで完走できなかったんです、ワールドカップに向けた練習など全然していなかったので、当たり前といえば当たり前なのですが、自転車でビリになりトップの人から周回遅れになった。それがすごく悔しくて、それでまた火がつき、「ここから強くなるためにはどうすればいいか」を考えて、トレーニング拠点を求めて車で遠くまで通ったりしているうちに、練習先のコーチに「本格的にやらないか」と誘われて、これがプロになるきっかけでした。

トライアスロンは3つの異なるスポーツで構成されていますが、得意・不得意など競技上で難しい部分などはありますか?
 やはり3種目のトレーニングをしなくてはいけないということで、トレーニングの時間がものすごくかかるという点。水泳があり、水の中と陸の上での動きなので、どっちかに偏ってもいけない。たとえばあまりにも体脂肪が落ちすぎると水泳が不利になってきたり、あり過ぎると走ることに影響が出てきたりするので、そういうのもすごく難しい。でもだから面白いんだと思いますけどね。不得意というか、比較的水泳が好きではありません。私はもともとスイマーではないので…。私は水泳の感覚がすぐに薄れるんです。今の選手はスイマー上がりがほとんどで、この人たちは水の中にずっといたわけで、水の感覚というものを忘れない。そういう人は陸上が得意ではなかったりするので、どっちもどっちなのかなと思いますけど、私の場合は水の感覚がすぐに逃げてしまう。ちょっと泳いでいないだけで分からなくなってしまう。それを思い出してくると泳げるようになってきて、そうなるとまた面白くなってくるんですよ。
1997年にプロ宣言して以来、12年にわたる長い選手生活を続けられていますが、これだけ長く続けられた秘訣を教えてください 
 「楽しむこと」です。それと不調になってそこからはい上がること、つまり不調を克服するのもすべて勉強だと思っています。向上心というか、自分でリミットをひかないようにしている。リミットを引いたときが引退だと思っているんです。
調子のアップダウンが激しいのですか? 
 不調になるのはしょっちゅう。北京五輪の前は不調がすごかったんです。2007年の秋口からちょっと体調がおかしかった。たぶんウィルスだったと思うんですけど、オーストラリアは風邪とはまた違う変なウィルスが蔓延していますから。原因は分からず、ただ自分が怠けたり、疲れているだけかと思っていたのですけれど、結局半年後ぐらいに貧血も分かって、やっと何かに感染していたというのが分かったんです。痰とか鼻水とかものすごいのが出てきて、ほんとうにすごかった。医者にも「炎症を起こしている」と言われました。薬を飲み始めたら良くなり、それと同時に頭がクリアになってきたんです。でもそれが4月で、すでに選考レースも始まっていたし、体調不良の際に足のかかともけがしていたので、ずっと選考の中にも入っていなかった。ただ過去の成績があったから、選考レースにはまだ一応出られたんです。でも「これはもう庭田は終わったな」みたいに思われていたし、自分自身も「これが最後のチャレンジだな」と思って、 2008年5月に広州で開かれたアジア選手権に臨みました。その前の4月に石垣島でレースがあり、それもランキングを上げられる大会なので一応選考の対象だったのですが、そこでボロボロだったんです。ビリだったかな…。そこからアジア選手権までの練習期間が2週間。アジア選手権で1位になればオリンピックの出場権を取れるのと、ここでどうにかしないと世界選手権にもいかれないと思ったんです。その年にはランキングがなく、ここ(アジア選手権)で3番に入らないと世界選手権に行かれなかったので、オリンピックへの道はそこで終わると思いました。もうそこの2週間はすごくがんばりましたね。

アジア選手権では、1位で(最後のランを)走っていたんです。「私、これでオリンピックにいける」と思ったんです。それが練習不足もあったり、すごく暑い中でのレースだったし、初めから突っ込んで走っていたので、後半落ちてしまい、最後の2.5キロぐらいのところで上田藍選手(シャクリー・グリーンタワー・稲毛インター)に抜かれて、2位になってしまったんです。それでも、まだ練習をきちんと積んで世界選手権に出場すればオリンピック出場権を取るチャンスが残っていたのでハッピーでした。「これは神様が私にくれたチャンス」だと思いました。その時のトロフィーは1位ではないですけど、捨てられずきちんと取ってあります。一番思い出があるので。

世界選手権は6月にバンクーバーで行われ、日本人では4番手で終わり、あまりいい成績ではありませんでした。日本の3番手は崎本智子選手(日本食研)で、オリンピックの選考はもめたようですが、大半が私の選考を支持してくださったようです。日本人のオリンピック出場枠3つは、私の(過去の)ランキングがなかったら、2枠しかなかったわけで、その部分が評価されてオリンピックに出させていただくことになりました。そしたら息が抜けないですよね。自分の練習も足りていないし、「そこから勝負だ」と思って、またオリンピックまで集中しました。ですので北京オリンピックでの9位というのはもう奇跡的。自分でも自分を褒めてあげたいぐらいだった、本当に。この奇跡は集中力から来たと思う。北京の前は体調が悪くなって選考にすらひっかかっていなかった。すごく集中して、短期間で、これしかないという状況で取り組んで、奇跡的なパフォーマンスで北京に行けたという感じだった。ああいう時の力というのはすごいですね。この歳であの集中力が出たというのは自分でも驚いています。

 

前ページ
1
 
 
1970年12月10日、茨城県牛久市生まれ。アシックス・ザバス所属。フィットネスクラブでの勤務中に会員に誘われたのがきっかけでトライアスロンを始める。1997年にプロ宣言し、2001年に著名コーチのコル・スチュワート氏の指導を受けるため、拠点をゴールドコーストに移す。オリンピックには、 00年シドニー、04年アテネ、08年北京と過去3大会連続出場し、北京では過去最高の9位をマークした。
 
 オーストラリア在住のスポーツジャーナリスト。95年、水泳・飛込競技でオーストラリア・ブリスベンにスポーツ留学したのをきっかけに、オーストラリアの スポーツに興味を持つ。98年、筑波大学大学院体育研究科体育方法学専攻を修了後、オーストラリアに拠点を移す。99年より約6年間勤務した毎日新聞社シ ドニー支局時代には、00年シドニー五輪、03年ラグビーW杯など、数々の国際大会取材に携わった。05年よりフリーランスのスポーツジャーナリストとし て、主にオーストラリア・南太平洋のスポーツを取材する傍ら、通訳・翻訳・コンサルティングも手掛けている。05年シドニー工科大学大学院(スポーツマ ネージメント専攻)修了。自身もクレー射撃の選手として活動している。

 

footer

この記事をシェアする

JAMS.TVからのお知らせ

Pick Up

PickUp-bottom-01

メンバー一同こころよりお問い合わせ・ご相談をお待ちしております。

JAMS.TVへのご相談はこちらから

この投稿者の記事一覧

その他の記事はこちら